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村上 密 Blog

キリスト教と裁判

 独裁的牧師が刑法か民法に抵触した場合、教会役員会は牧師の罪を裁くことができるだろうか。牧師が独裁的であったら無理である。教会は確かに世俗の法に基づかず、聖書に基づいて裁く権限をキリストから委ねられている。しかし、独裁的な牧師は、その権限を教会から奪い盗っている。信徒を一方的に裁くことができるようにはしているが、自分が裁かれるようにはしていない。まず、役員会は有名無実である。役員会はすでにイエスマンで占められている。意見を言う信徒は独裁的教会に留まれない。教会が所属する教団に統治能力があれば心配ない。しかし、それがなければ裁判しかない。独裁的牧師は、信徒に不利なように自分勝手な教会運営をしている。これでは世の裁判を用いるしかない。世の裁判を否定する人は、被害者の深刻な状況を知らない人で、ステレオタイプの人が多い。私は今まで裁判を起こしたことはない。裁判を支援はしている。どういう裁判かと言うと、教団が統治能力を失っている場合である。または、牧師が独裁的な場合である。すなわち自浄作用をなくしている場合に限る。神を恐れる牧師なら自ら身を引く。人の忠告を聞く牧師なら問題は早期に解決している。時間が立てば立つほど人を巻き込み、悪あがきをする。傍から見るとぶざまであるが、本人は迫害されていると喚く。これでも牧師かと言うほど倫理観を失う牧師もいる。
 被害者が相談する相手を間違うと悲惨である。「赦しなさい」「忘れなさい」このように言う人を相手にしてはいけない。言う通りにしないとその人から裁かれる。裁くなと言う人がよく裁く。加害者の味方かと思うほどに不愉快になるだけである。キリスト教界の統治能力が低下している。至る所に綻びができている。プロテスタント、カトリックの区別はない。そして他の宗教界も政界も経済界もモラル・ハザードである。教会は真理で武装するだけではなく、教会が存在する時代や国の法を学ぶ必要がある。教会が法を無視すれば、法が教会が裁くことになる。教会が理性を否定すれば、ヒステリックな集団になり下がる。教会は世にある限り、治外法権を持つことはできない。それは国が許さない。いつの時代にも、教会は国と法との緊張関係に置かれている。その緊張関係の下で、クリスチャンは聖書に基づきキリストの教会を形成しなければならない。そして、遵法精神をもつ教会のみが世に警鐘を鳴らすことができる。

  悪人がどうして正しい裁きをすることができるかだろうか。
  それは悪人が自分を裁く行為である。
  悪人が自分を正しく裁けたら、もはや悪人は悪人ではない。
  悪人は正しい裁きを自分にすることができない。
  完全な善人はいない。完全な裁きを人はできない。
  しかし、神を畏れる人は裁く権限を委託される。
  誤れば自分が神から裁かれると知っているから。
  神を畏れる生活、それが礼拝である。
  神の心を自分の心とする、それが信仰である。
by maranatha | 2010-03-28 21:34 | 裁判
宗教問題

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