2010年 03月 28日
キリスト教と裁判
被害者が相談する相手を間違うと悲惨である。「赦しなさい」「忘れなさい」このように言う人を相手にしてはいけない。言う通りにしないとその人から裁かれる。裁くなと言う人がよく裁く。加害者の味方かと思うほどに不愉快になるだけである。キリスト教界の統治能力が低下している。至る所に綻びができている。プロテスタント、カトリックの区別はない。そして他の宗教界も政界も経済界もモラル・ハザードである。教会は真理で武装するだけではなく、教会が存在する時代や国の法を学ぶ必要がある。教会が法を無視すれば、法が教会が裁くことになる。教会が理性を否定すれば、ヒステリックな集団になり下がる。教会は世にある限り、治外法権を持つことはできない。それは国が許さない。いつの時代にも、教会は国と法との緊張関係に置かれている。その緊張関係の下で、クリスチャンは聖書に基づきキリストの教会を形成しなければならない。そして、遵法精神をもつ教会のみが世に警鐘を鳴らすことができる。
悪人がどうして正しい裁きをすることができるかだろうか。
それは悪人が自分を裁く行為である。
悪人が自分を正しく裁けたら、もはや悪人は悪人ではない。
悪人は正しい裁きを自分にすることができない。
完全な善人はいない。完全な裁きを人はできない。
しかし、神を畏れる人は裁く権限を委託される。
誤れば自分が神から裁かれると知っているから。
神を畏れる生活、それが礼拝である。
神の心を自分の心とする、それが信仰である。