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村上 密 Blog

十分の一

 カルト化した教会の被害者が最も質問するのは十分の一についてです。

 マラキ書の十分の一が必ず引用されるます。
「人は神のものを盗むことができようか。
 ところが、あなたがたは
 わたしのものを盗んでいる。
 しかも、あなたがたは言う。
 『どのようにして、
 私たちはあなたのものを盗んだのでしょうか。』
 それは、十分の一と奉納物によってである。
 あなたがたはのろいを受けている。
 この民全体が盗んでいる。
 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、
 わたしの家の食物とせよ。
 こうしてわたしをためしてみよ。」(3:8~10)

 カルト化した教会では、十分の一を捧げないと「祝福はない」「泥棒」と言われます。彼らの聖書的根拠がマラキ書です。ところがマラキ書は旧約聖書に属します。エルサレム会議では異邦人教会に十分の一を捧げよとは言っていません。「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」(使徒5:28.29)よって、マラキ書の十分の一を異邦人教会に適用することは有効ではありません。

 新約聖書のなかで「十分の一」についての唯一の言及は、「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかみしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。」(マタイ23:23)ここを示して、イエスは十分の一を勧めていると言う人もいます。これは律法下に生きている人への教えです。これを異邦人教会に当てはめることはできません。現代の教会が十分の一を教会員に勧める聖書的根拠がないと言うことです。

 新約聖書の献金に対する教えで、比率については沈黙しています。パウロは「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。」(コリントⅠ16:1.2)と教えています。この献金はパウロが使う献金ではありません。貧しいエルサレム教会に送るものです。パウロの働きのために捧げてくれたのはピリピの教会だけでした(ピリピ4:15)。ここにも比率への言及はありません。

 これで十分の一が異邦人教会である現代の教会に要求されていないことがわかりました。今まで「泥棒」と言われたり、「聖書の教えに忠実でない」と責められたりしましたが、良心の責めからも解放されることになります。献金は押し付けられてではなく、自分で判断し神に捧げることが新約聖書の教えです。ですから、十分の一を自分で決めて捧げるのも自由です。二十分の一にするのも自由です。ただし、教会の規則で教会員の義務として「十分の一」が書かれていたら、あなたはその義務に従う必要があります。従いたくなっかたらそのような教会を出ることです。私は教会を壊すためにこれを書いているのではありません。思考停止に陥っている人に、もう一度聖書は何と教えているかを伝えているに過ぎません。キリスト教的習慣が本当に聖書的かは疑問です。
by maranatha | 2010-08-13 15:21
宗教問題

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