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村上 密 Blog

油注がれた者

 権威主義の教会で最も悪用されている言葉は「油注がれた者」である。牧師は説教の中で、交わりの中で公言している。教会員は、この言葉を聞いて、誤って牧師を特別視していく。「油注がれた者」とはギリシャ語でキリスト、ヘブル語ではメシアである。油を注がれて就く職務は、旧約聖書において、祭司、王、預言者である。油は聖別するためのものである。これらはキリストの型である。キリストは大祭司であり、王の王であり、偉大な預言者である。キリストは3つの職務を一人で負っておられる。ところで、プロテスタントでは、キリスト者は万民祭司であると教えている。ところが権威主義の教会では、信徒は牧師だけが油注がれた者、特別な職務、祭司であるかのように教え込まれている。万民祭司を支持する聖句は「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。」(黙示1:5、6)これは、牧師を指しているのではなく、救われた人を指している。ヨハネの黙示録には牧師という言葉は出てこない。祭司は油注がれて就く職務であるから、万民祭司のキリスト者はいつ油注がれたのだろうか。油は聖霊を表している。キリストは「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられる」(ヨハネ1:32)「聖霊があの方の上に下って」(ヨハネ1:33)、大祭司としての油注ぎを受けられた。キリストの体なる教会は聖霊降臨によって誕生し、宣教の業に取り組んで行った。聖霊降臨が教会への油注ぎであり、新生の体験をした人は、このキリストの体なる教会に組み合わされ、聖霊の内住を受けて、祭司としての油注ぎを受ける。キリストの「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒11:26)「キリスト者」と呼ばれるのはキリストの教えに従って生きているからである。信じる者への新しい呼び名、称号である。油注がれた者にふさわしい生き方とは、支配ではなく、キリストが「仕えられるためではなく、かえって仕えるため」(マルコ10:45)生きられたように生きることである。
by maranatha | 2013-05-31 09:30
宗教問題

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