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村上 密 Blog

サウルとダビデ

 神はサウルが王であった時、すでに、次の王位をダビデにと定めておられた。主は言われる。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)私たちは、ダビデの心を17章で知ることができる。サウルはゴリヤテを目の前にして恐れるイスラエル軍を鼓舞するために3つの約束をしていた。1つは、ゴリヤテを殺す者がいれば、大いに富ませる。それは魅力的な約束である。2つは、娘を与える。それは王族に名を連ねと言う地位の約束である。3つは、何の義務も負わせない。それは8章にある民が負わねばならない王の権利からの免除である。これは一族の繁栄の約束である。誰もが厭うため、誰もが願うことをサウルは提案する。それでも兵の中から立ち上がる者はない。ダビデが立ち上がったのは、約束を聞いたからではない。彼は、富と地位と繁栄を望む普通の人ではなかった。「主は心を見る」と仰せられた。彼が立ち上がったのは、ゴリヤテが「生ける神の陣をなぶった」(17:36)からであり、「イスラエルに神がおられることを知」(17:46)らせるためである。神はご自身を愛するものを知っておられる。彼が立ち上がりその手に持ったのは剣や槍ではなかった。使い慣れた石投げ器である。神は特別な環境でダビデを育てられたのではない。職業は羊飼いである。ダビデはその中で神を敬い、誠実に務めを果たす人であった。彼は石投げの業を羊を守るために身に着けた。神はこのような者に勝利を与え、やがて王位をお与えになった。ダビデは、人々が望むものではなく、神が望まれることをしようとした人物である。今日、このような人物がどこにいるだろうか。人々は、ゴリヤテがいないので、富と地位と繁栄に飛びついている。もし、神のために立ち上がる者がいたら、その人に待っているのは苦難である。ねたまれ、疎まれ、追われ、殺されそうになり、飢え渇き、艱難辛苦が伴う試練である。それでも従うとしたら神からの召命体験したからである。何を大切にしなければならないか、それは召しに応えることである。これこそ神を愛する者の真の礼拝である。

by maranatha | 2015-02-24 16:30
宗教問題

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