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村上 密 Blog

叫びから希望へ

宗教被害者の叫び
宗教トラブル相談センター(略称宗トラ)には、諸宗教の信者から相談が寄せられる。宗トラは諸宗教からすると部外者である。その部外者に相談が寄せられるのは、諸宗教がその団体の宗教被害者の声をしっかり受け止めていないからである。宗教には、それぞれ規範がある。内規ではなく、公にされた規範に適わない問題を信者が犯したのであれば、その規範に基づいて裁くのは、規範に同意して入信したのであるから、信者はその裁きに服さなければならない。服したくなければ脱退すればよい。しかし、公にされた規範ではなく、利害関係で、裁かれる場合、その宗教の不正義は、確実に被害者の利益を損ない、信心を抑圧することになる。このようなことがまかり通るようになると、被害者は増加し、宗教内での問題は正しく裁かない団体の責任者たちによって二次被害を招くことになる。被害者は忍耐強い。しかし、その忍耐も、希望のある忍耐であるならばよいが、問題解決を先延ばしにする忍耐であるならば、苦痛を増すだけである。そこにあるのは言葉にならない叫びである。

希望のある忍耐
宗トラでは、被害者の声を受け止めて、加害者である団体と和解交渉をしている。和解に至らない場合は、問題によっては訴訟に至ることがある。できるだけ、団体の自浄作用を促すために、和解交渉を優先している。和解交渉は、代理人となって、無償で交渉している。訴訟の場合は、弁護士を被害者と協議して選定している。その弁護士に任せる場合もあれば、裁判の期間協力し合うこともある。宗教がその宗教内で問題を解決できない場合、すなわち、その宗教内の不正義によって、正しい裁きが妨げられた場合、司法の場に進むことになる。この時、宗教の暴力は、自分たちの不正義にもかかわらず、自分たちの権威を振りかざし、司法の場での決着を妨げようと圧力をかけてくることがある。その団体の名誉のために、いや、団体の責任者たちの自己保身のために、他の信者が情報コントロールされ、信者は団体の中で疎外さることがある。和解は自浄作用の結果である。訴訟は自浄作用がない結果である。和解には、疎外された人が帰って行く場があるが、訴訟の場合は、勝っても帰る場がないことがある。負けた側の心がかたくなで、訴訟で負けても、その結果を心から受け入れないからである。その場合、団体に帰る道を選ばないで、団体が自浄作用がないと公にすることで、被害者の拡大を防ぐことに貢献したことに慰めを見いださなければ気持ちの行き場がない。自分の身に起きた不利益を、他の人に役立たせる道には自己犠牲が伴うが、この道こそ、隣人愛である。闘っていく中で築かれる理解者たちこそ、神からの賜物であり、より問題を理解し、解決能力を身に着けたことは金銭にまさる財産である。このことは、被害者が、泣き寝入りで終ることなく、他の被害者を助け、効果的な情報と理解者を得たことによって、将来に希望を持って踏み出す力となる。

by maranatha | 2016-04-26 11:46
宗教問題

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