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村上 密 Blog

痛みを負う

何が応えるか
肉体の痛みは、体を守るためであり、心の痛みは心を守るためである。子どもの頃、私は父にせっかんされた。私が悪さをしたからである。見かねた母が、父と私の間に入って、これ以上、せっかんしないように執り成した。父の手は、「おまえが甘やかすからだ」と、母へ向かって行った。母が、殴られ、蹴られているのを見て、私は心が痛んだ。父にせっかんされたときの痛みより、母が犠牲になってくれたときの心の痛みの方が、私には応えた。このことは私の心の痛みの原体験である。

福音理解の助け
キリストの十字架は、私の罪の身代わりであった。この福音理解の助けになったのは、私の原体験である。母が受けた痛みが、キリストが受けた痛みを理解する助けになった。厳格な父に涙を流さないようにしつけられていたにもかかわらず、私ははらわたゆすられるほど激しく泣いた。そして、私はキリストを信じた。

痛みが喜びに
教会のカルト化で、多くの被害者が痛みを体験している。その痛みをいやす者は誰だろうか。被害にあって叫んでいる時、神は助けてくれなかった。神はひとり子が苦しんでいる時でさえ、助けはしなかた。正しい人のために助けなかった神は、正しい人を信じた人も助けなかった。あなたの痛みを放置された。神は、被害者の痛みを、多くに被害者をいやすために用いられる。カルト化を克服するあゆみを、他の人の克服の道しるべとして用いられる。痛みの経験が、人の役に立つ時、痛みが痛みで終わらず、喜びにかえられる。

痛みを負う
私はカルト化の被害者の痛みをいやす働きをしている。私も傷つきながらである。痛みを負って、問題の解決のために歩いて来た。一般には理解されないこの痛みは、同じ痛みを経験したものが理解できる。誰かが自分のために追わなくていい痛みを負ってまで自分に近づいてくれたことで孤独からいやされる。祈っているでは傷つかない。その人に寄り添うとき傷つく。寄り添う人は、傷負い人である。その人は、ののしられ、さげすまれ、うとまれ、言葉のつぶてを身に受ける。それが痛みを負う人の十字架である。

by maranatha | 2016-04-28 00:13
宗教問題

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