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村上 密 Blog

間違った聖書解釈の悪影響

 ホブ・ハウツーワールトはアパルトヘイト(人種隔離政策)に、なぜ南アフリカの教会が同調したか、どんな聖書の言葉が誤用されたかを教えている。「愛に関しても、同様の原理が成り立つ。それほど前のことではないが、私は南アフリカでアフリカーナーの新約学者に、私たちの隣人を私たちと同じように愛するとはどういうことなのか尋ねた。すると、隣人を愛せよとの命令は、確かに私たちの隣人を、黒人であっても私たちと同じように愛することを意味すると極めて誠実に答えた。しかし、彼は二つの制限を付け加えた。まず第一に、その命令は自分自身、それゆえアフリカーナーとしての自分自身を愛する余地を残している。従ってイエスの言葉は、自国民のアイデンティティーを保持することを阻むものとして理解されてはならない。そして第二に、隣人を愛する時には、一定の秩序を保たなければならない。まず自分の民のキリスト者を愛し、その次に自分の民に属さないキリスト者を愛し、それから同じ民で信者でない者を愛し、最後に同じ民でなくキリスト者でない者を愛さなければならないと言ったのである。概して、愛についてのこうした見解は、イデオロギーの要素を持っている。イエスが私たちに示したアガペーの愛は、国や階級といったあらゆる境界を越える無条件の愛であり、イデオロギーの愛はこれと似ても似つかない。私の隣人とは誰かという質問に対する答えは、福音自体から出て来る。私の隣人とは、サマリア人-イエスの時代の南アフリカの黒人に当たる-によって愛され、手当てをしてもらった強盗の犠牲者のように、誰であっても私の助けを求めている人のことである。」
(『繁栄という名の偶像』宮平望訳 いのちのことば社 P54)

 ティーリケは南アフリカだけでなく、アフリカの教会に誤った思想が拡大したことを証言している。。「イデオロギーによって問題をかすませてしまう行為は、それがキリスト者の間でなされる場合、特に厄介な、気が滅入るようなものとなります。私はアフリカの国々でそれを経験しました。そこではかなり多くの教会(または牧師、神学者たち!)が何世紀にもわたって聖書を酷使し、どんなペテン師的方法とも比較できない程の愚かしさで、テキストの自分かってな解釈を行い、神の言葉にもとづいて、神が白人に世界支配者としての地位を、また黒人には、この青白い顔をした神の寵児(白人)たちに奉仕する役を与えていることを<証明>しようとしているのです。私たちはこういう人たちとたびたび議論しましたが、このぞっとするような考え方に接して、思わず怒鳴りつけたい衝動にさえ駆られました」
(『現代キリスト教入門』佐伯訳、ヨルダン社 P228)

 宗教トラブル相談センターへの相談者の多くは「霊的戦い」によって恐怖心が増幅されている。キリストによる救いは信じる者に平安をもたらすものだが、相談者はいつも救いを失わないように、奪われないように戦々恐々と信仰生活を過ごしてきた。悪霊やサタンの存在がクローズアップされ過ぎている。これは信仰というより、神と悪魔、善と悪の二元論的イデオロギーの下にある状態である。神の主権を知らない人が多すぎる。さらに共通するのは、牧師を権威化そして絶対化しているのも特徴である。恐怖心が増幅されているため、牧師への依存度が強くなっている。牧師への意見を言う人は教会に残れず、従順だけがその教会に残る道である。クリスチャン人口と二元論的イデオロギーの影響下にあるクリスチャンの比率はかなり高いと思われる。放っておける人数ではない。

 解決するには、権威化、絶対化されている牧師を相対化する必要がある。それで、教会員は教えを比較検討するために資料や書物を読むようにしなければならない。二元論的イデオロギーに影響されている人の思考法は、ジョージ・オーウェルの『1984年』(ハヤカワ文庫に出てくる「ブラック・ホワイト法」(白黒思考)そのものである。これを参考にしてほしい。
by maranatha | 2013-04-13 14:47 | 聖書解釈
宗教問題

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