2007年 09月 09日
勝訴と偏見
さて、この裁判を起こすことに反対した地域教会の牧師会に申し上げたい。牧師会は裁判の内容をよく知って反対されたのか、知って反対されたのであれば、被害者の権利に対する妨害である。知らないで反対されたのであれば、それは闇雲の反対であり、情緒的すぎる。私は反対した地域教会の牧師会の責任者に強く反省を促したい。責任者たちの中で、だれひとり原告のところに来て、親身になって、被害状況を聞いた牧師はいなかったということである。こういう事例を「赦しなさい」と言って過去に対応してこられたのではないか。加害者と会い、悔い改めに導き、謝罪を取り付け、一緒に同行して被害者に頭を下げることをされた牧師がおられるだろうか。この事件で、損害賠償を立替えて「赦しなさい」と言った牧師もいない。犠牲を払わず、口先介入をすることは、被害の深刻な人々にとって、傷口に塩である。無責任な発言である。
私は宗教における被害救済を長年取り組み、カウンセリングを行ってきた。時には弁護士と協力し、被害者救済も手掛けた。私の手法に対して感情的な反対者がいることは知っている。しかし、その反対者がいったいどんな救済の手を被害者に伸べただろうか。この事件について、直接関係のない方で、地域教会と敵対するような行為は慎むべきだと思われる方がおられるかもしれない。その思いやりには感謝したいが、地域エゴを放置することは私にはできない。牧師を信頼できず、地域教会に足を運ぶことができない人が増加している状態である。宗教的トラブルの問題解決のために裁判を用いることへの誤解と偏見は極めて根深く、無意識に刷り込まれて内在化されているため、見直しが強く求められる。