なぜ、牧師が間違ったものに惑わされるのか。間違っていると思ったら避けるはずである。間違うのは正しいと思うからである。情報が不足している状態で、信頼する人や団体、親しい人がこれがいいよ、と勧められて取り入れることが間違いの一歩であることが多い。あるいは、情報誌で頻繁に取り上げられている場合、信頼度が増して、興味をそそられて選択することも考えられる。私は正しいことと正しいと思うことは違うと身近な人には言い続けている。思いに重点を置いた決断ではなく、情報を精査して選択する習慣を身につけなければ、間違いを繰り返すことになる。
教会をいかに成長させるか。このようなことを教会の目的にしてはならない。教会は福音を伝えるのが使命である。大きくするのが使命ではない。人を救われるのは神である。人が救うのではない。努力をすれば成長できると思い込んで思うようにいかなくなることが繰り返されるときに、自分は召されていないのだろうかと思い続けて燃え尽きることがある。思うようにならないのが普通である。牧師のリーダーシッップについてセミナーが幾たびも繰り返されてきた。「仕えられるためではなく、仕えるために」(マルコ10:45)とはっきりとした教えがあるにも関わらずに異なる教えが流布している。それは、リーダーシップを教える人がこの分野でいわゆる「成功した器」とみなされているからである。教会を短期間で大きな群れに成長させ、さまざまな奉仕者を擁する教会になった、と触れ込みがあれば、「成長」で悩んでいる牧師は教えを願うだろう。それが間違いである。それぞれにはそれぞれの役割があり、自分の役割や使命を理解して、そこから何ができるかを、人からではなく自ら問いながら進むべきである。そうすれば、他者との比較ではなく、神と自分との関係の中でよそ見をしない牧会者として生きていける。集団の中で同調圧力で選択するのではなく、オリジナルな役割を果たすことができるようになる。