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村上 密 Blog

民主的な教会を装う権威主義的な教会

1970年代まで、教会は概ね民主的に教会運営をしてきた。ところが、1980年代から教会成長論を導入した教会で信徒の増加が顕著になってきた。牧会は、信徒の数が増えると行き届かなくなる。そこで、牧師は権威を強調し、従うように強制し、教会の問題を丁寧に扱うことから抑え込むようになってきた。そうして、権威主義的な教会が生まれた。権威主義的な教会では、教会総会がない場合がある。信徒が教会の運営について質問する場はなく、従うことが要求される。また、民主的な教会運営を装うために、教会総会は開くが、形式的ですぐに終わってしまう教会も出てきた。権威主義的な教会では、牧師が役員を決めることがある。牧師は役員が牧師に従い、補佐するように誓約させる。民主的な運営を装うために、選挙はあるが、牧師が望む役員候補を事前に決めている場合もある。権威主義的な教会は、信徒が牧師にとにかく従うように作られている。何をするにも牧師に伺いを立てるところもある。このような権威主義的な教会では、自主的な聖書の学びがないために、聖書の理解を牧師に依存することになる。牧師が間違った教えを教会に導入しても、それを指摘する信徒は教会から追い出され、従う信徒だけで教会が運営されるために、教会が一致しているように思えるが、それは信仰の一致ではなく、意見の一致とするかえられた教会である。新しい人を皆が笑顔で歓迎してくれる。質問しても同じ答えが返ってくる。自分の属する教会を誇り、他の教会を世俗化していると蔑む。霊的高慢に陥っている。このような思考になると、他の教えを受け付けない。教会を批判されると感情的に反論してくる。場合によっては、悪魔が自分たちを攻撃していると思い込む信徒も出てくる。排他的な教会に属する信徒は、自分たちは選ばれた選民の中の選民という霊的エリート集団と思い込み、熱心な「信仰生活」を過ごして、非常識な行動を「信仰」と思い込む。その為、家庭崩壊や友人関係の破壊が生じている。
# by maranatha | 2021-04-20 20:32 | カルト化

困難の中で

バブルの時、キリスト教会は、経済的に安定し、右肩上がりに信徒数が増加していった。バブルがはじけてから、社会も大変だったように、教会も同じように大変な時を過ごした。その時以上に、新型コロナウィルス感染は、社会対してもにも教会に対しても深刻なダメージを与えている。倒産する会社があるように、教会を閉じなければならないところが出てくるかもしれない。特に、会堂を持たないで、会場を借りて礼拝している教会は、経済的に大変だと思われる。信徒の収入の減少を一番受けやすいからである。経費削減の努力をしても限度がある。牧師が教会外に仕事をしなければならないかもしれないが、その仕事さえ年齢的に探すのが難しい状況である。ここで、教会が信徒に対して献金を強く訴えるのは控えるべきである。苦しい状況をさらに苦しくするからである。献金は強制ではない。信徒の自由意志に基づいて献げられるものである。特に、権威主義の教会では、牧師が献金を強調すると、信徒は逆らえない心境になっているので、問題が起きやすい。もし、クレジットカードを作ってでも献金しなさい、と講壇から語られたら、即、教会を離れるべきである。これは、カルト化した教会の中でも、精神的虐待がひどい教会でよく見られたからである。これは経済的搾取である。黙示録の7つの教会が現存しないように、時代の影響を受けて教会がなくなっても、信仰を持った人々が次の町や教会に移っていけばよい。大切なのは建物ではなく、信仰である。教会堂を維持して信仰生活を過ごす形態から、いくつかの家の教会を牧会していく形態に移行してもいいのではないか。かたちにこだわらず、信仰を持ち続ける工夫を牧師と信徒が一緒になって話し合ってもよいと思う。
# by maranatha | 2021-04-14 21:54 | 教会

礼拝

新型コロナウィルス感染で礼拝の形態が変わった。教会に集まって礼拝するから、一部の教会ではパソコンの画面を通して礼拝するようになった。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)を文字通り、物理的に考える人は、教会こそ、主がおられるところだ、と思い込んでいる。ところが、この「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所」は、物理的ではなく関係論である。信頼し合い、互いに愛し合い、祈り合う関係の中に、主は共におられるのである。だから、距離が離れていても、主は共におられる。天も地も、主をお入れすることはできない。主は信じる者たちのこころを住まいとしてくださる。宇宙の果てにおられるのではない。物理的な空間に住まいがあるわけではない。空間を超えた世界に主はおられる。大切なのは、礼拝の形態が変わっても、主をこころから礼拝することである。そして、日曜日の午前の礼拝会を礼拝と限定するのではなく、礼拝は主の教えに毎日応答する信仰生活であるから、そのこころで過ごすことである。


# by maranatha | 2021-04-12 20:05 | 教会

日課

朝、毎日ネズミの穴を覗く。昨日、穴の中を覗いたら、ネズミと目が合った。頭を引っ込めたが体はそのまま動かないでいた。随分となれてきた。エサをあげるわけでもなく、ただ覗くだけ。おそらく、私の足音を覚えているはずだ。だれも、ネズミの穴に気づいていないに違いない。
毎日、穴の近くで歩くのを止めて、覗き見る人は私ぐらいだろう。普通に歩いて穴に近づいて行くが、気を付けていることがある。悪さを考えて近づかない。元気にしているかな。今日は会えるかな。顔を見たいな。挨拶したいだけなんですよ。こんな感じで近づく。

玄関を開ける。毎日小さな花壇を見る。ジュズサンゴの花が咲き、赤い実をびっしりつけている。ハゼランの花も咲いている。昨年より増えた。他にも花たちが咲き始めた。小さな草花たちが、私を毎日迎えてくれる。もう一つの花壇には、センダンソウが2m50cmほど伸びている。こんなに背が高いセンダンソウはここだけだ。近所の方が雑草が伸びていますね、と声をかけてこられた。いや、これはミツバチの為に植えているのです。怪訝な顔をされた。この辺で、花壇や植木鉢にセンダンソウを植えている人はいない。年中、白い花を咲かせている。天気が良い時は、ミツバチがどこからか飛んで来る。



# by maranatha | 2021-04-10 08:40 | 動物

善悪二元論

前回、説得ではなく対話の大切さについて書いた。その為には家族のだれかが理解者として立つ必要がある。ところが、善悪二元論に陥っている信者は、理解者が自分に賛成でないと、反対者とみなしてくる。彼らは自分の信仰に対して家族が賛成か反対かの見方しかできない。理解者が賛成者にならないと判断したら、どんなに親しくても関係を切ってくる。カルトの指導者は、家族を切った信者を信仰的と持ち上げるので、カルト内での受けはよくなる。家族関係を切ると、カルトが疑似家族となり、疑似家族での家長である指導者の権限は一層強くなる。外に頼るものがなくなるために、指導者への依存を深めるからである。疑似家族が家族の勝ることはないのだが、家族は聖ではなく俗とみなすので、家族の情愛も否定する。善悪二元論は自分を常に善の側(神側)に置くので、自分に反対する人々を悪(サタン側)とみなし、対話さえけんか腰となる。この思考に陥った信者は男性でも女性でも言葉が荒くなる。どうしたら、このような世界観から抜け出せるのか。それは理想と思った自分の属する団体の中で、失望するような出来事が起きたときにである。理想が現実に引き戻されることがある。この時に、以前にこの団体をやめた人々の情報に触れたりすると、そう言えば、脱会者の言っていることに符合することがいくつもあったと思い至って、脱会することがある。すなわち、理想に燃えているときは、説得は効果がないが、理想と現実のギャップに自分自身が身を置くようになった時に、脱会の機会が訪れてくることになる。
# by maranatha | 2021-04-07 20:48 | カルト
宗教問題