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村上 密 Blog

終わりの日には

 「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3、4)

 この聖書の言葉は、終わりの日の文脈に置かれています。ペテロはペンテコステの出来事は、預言者ヨエルによって語られたことの成就と言っています。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(使徒の働き2:17)と。それで終わりの日はペンテコステから始っています。今日までの約2000年間が終わりの日です。日を24時間で考えがちですが、終わりの日は24時間ではなく、期間をあらわす言葉です。もちろん、終わりの日の最後の日も終わりの日です。それでは、今日と言う日はどんな日かと言いますと終わりの期間の終わりに近づいている日と言えます。
 
 1980年代から、日本の経済力を背景に、外国から次々と講師を招くことが多くなりました。超教派の聖会やセミナーが盛んになり、教団の特色が薄れてきました。それで、教団間の垣根も徐々に低くなりました。キリスト教系のメディアにはいかがわしい聖会の案内もよく掲載されました。読者は見抜く力がなければ、広告案内を鵜呑みにして、被害を被ることになります。それは今も続いています。
 聖会の成功はメッセージの内容ではなく、如何に大勢の参加者が集まるか、いかに多くの献金が献げられたかでした。そしてその二つが満たされると「祝福」と言う言葉が使用されました。TV会社が視聴率が高く、広告収入が多いことを成功と見ることと同じ感覚です。ベニー・ヒンは教理的に誤りであっても、大勢の人を集めました。彼を招待するのは、興行的に成功するためであり、招待した人は人々が惑わされることに責任を取りません。離婚が明らかになった今、ベニー・ヒンを招く人はいなくなるでしょう。それで、都合の悪くなった人は忘れて、新しい人を講師に招きます。招かれる人は、招く人を見抜く力がないのでしょうか。招かれればどこへでも行くようです。その招く教会や団体がカルト化していようがおかまいなしです。そして問題は続くことになります。かつて、ピーター・ワグナーらが、トッド・ベントリーを使徒に按手・任命してまもなく、トッドの離婚問題が表面化し、見抜く力もないにせ使徒ぶりを証明してくれました。ピーターはカルトを日本に輸出しているような人物です。私は見抜く力は指導者に必要な資質だと思います。相変わらず次々と外来講師がきます。終わりの日に惑わされない人は、ムーブメントに振り回される人ではなく、聖書の教えを生活化していく人です。
by maranatha | 2010-05-17 22:16
宗教問題