2012年 01月 28日
健全な教会を求めて
熱心が必ずしも正しいわけではないことは、次の聖書の言葉から分かります。「彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心さは知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」(ローマ10:2)カルト化した教会の熱心さは、「私たちが一番熱心に伝道している。」「私たちの教会は、礼拝を休まない熱心な信徒が多い。」「熱心に献金する人が祝福される。」といったような熱心です。
福音派、ペンテコステ派は、伝道熱心、礼拝厳守、献金の多さで、1980年代から急成長しました。このころから教会成長が熱心に提唱されました。教会成長のために弟子訓練も導入されました。人が増えることによって起きる弊害は交わりの希薄さです。それを防ぐためにセル(細胞)が導入されました。信徒の生活は、次第に教会中心の生活となり、熱心な信徒が、模範的な信徒と祭り上げられてきました。それは、社会生活からの分離です。「聖」は人や物がもっぱら神のために用いられるため、分離されることを意味します。ここでカルト化した教会は、神=教会と置き換えて、熱心の対象を教会生活(伝道、礼拝出席、献金、奉仕)に置きます。信仰生活は教会活動に限定されるようなものではありません。
カルト化した教会は、信徒の信仰生活を教会活動に限定することによって、自分たちの義を立てようとしています。その結果、信徒は社会的常識を放棄し、権威主義の牧師を神の代理人と信じて、自らの判断を放棄するに至りました。カルト化した教会の牧師は、知識を否定し、牧師への従順を強調します。さらに赦しを強調し、教会の中で非常識ゆえに起きる問題を、赦しですべて片付けていきます。これは牧師への責任追及を避ける方便です。非常識を信仰的と置き換える牧師に問題解決の力はありません。次第に問題が多発するようになり、深刻な人権侵害が起きる結果となります。
健全な教会とは、どんな教会でしょうか。熱心を教会の義として立てようとしない教会です。神の義を求める教会です。それはキリストの教えに耳を傾け、キリストに従う教会です。牧師が崇められる教会ではなく、キリストが崇められる教会です。牧師のビジョンが説教で強調されるのではなく、聖書がしっかり解き明かされる教会です。健全な教会を求めておられる方の参考になれば幸いです。