2013年 01月 10日
イエスとサマリヤの女
ヨハネの福音書4章に、この物語がある。ヨハネの本書の目的書いている。「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(20:31)この箇所は、サマリヤの女が、如何にしてイエスがキリストであるかに至ったかをしっかり記録している。女は、「あなた」「先生」「預言者」「キリスト」と段階的にイエスに語りかけ、イエスとの対話を通して信仰に至った。何が「あなた」を「先生」に至らせたのか。何が「先生」を「預言者」と思わせたのか。何が「預言者」を「キリスト」と思わせるに至ったのか。イエスは、誰も拒むことはないであろうを「水」を、差別されている女に求められた。もし、イエスから親切も申し出られたならば、女は頑なに拒んだことだろう。小さな親切を求められるところから、築きにくい関係を築こうとされるイエスの配慮が見られる。女は「あなたはユダヤ人なのに・・・どうしてサマリヤ人の」女の私に、お求めになるのですか。」女にとってはありえない出来事であった。女が「あなた」を「先生」にかえたのはイエスが「生ける水を与える」と語られたからである。女はこの水は渇くことのない水を求めた。しかし、これを得るためには、狭き門を通らねばならなかった。それは自分に正直なること。女は「夫をここに呼んできなさい。」に対して正直に答えた。女が語る以上に女の状況を言い当てられるイエスを、今度は「預言者と思います。」と語りかけた。しかし、キリストに至ってはいない。では何がこの見知らぬ「あなた」を「キリスト」に至らしめたのであろうか。それは、イエスが礼拝について奥義を語られたからである。イエスはサマリヤ人が礼拝する場所を否定したばかりか、ラジカルにもユダヤ人が礼拝する場所をも否定し、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるのからです。」神を「父」と呼び、場所に捉われない、心からの礼拝を求めておられると解かれるイエスに、女は「キリスト」を思い起こし、「その方が来られるときには、いっさいを私たちに(サマリヤ人)に知らせてくださる」と。女は差別することなく真理を解かれるこの人に「キリスト」を見たのである。神は、人に指差される生活をする女であっても、心の片隅に抱いている希望に目を留められた。「サマリヤを通っていかなければならなかった。」(4:4)これは摂理を現す言葉である。父が計画されたことをイエスは行われた。信仰は、他人で会った「あなた(イエス)」と「私」を間を、なくてはならない関係にすることである。
by maranatha
| 2013-01-10 15:23