2013年 01月 18日
油注がれた方に手を下すな
部下はサウルを殺すようにダビデに告げるが、ダビデはそれを拒否した。「私が、主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対できないことだ。彼は主に油注がれた方だから。」(Ⅰサムエル24:6)これは権威主義の牧師とカルト化した教会の牧師の強調する聖書箇所である。この聖句を用いて、彼らは自分への批判や訴訟を押しつぶす。サウルはダビデに対して自分の悪いことを認め、謝罪している。彼らは自分の悪いことを認め、謝罪することはない。「手を下す」とは殺すことである。ダビデはサウルを殺そうとしたことはないが、サウルはダビデを殺そうと執拗に追跡した。それでもダビデはサウルを殺そうとはしなかった。サウルが油注がれた方だからだ。どの時代にも主君殺しはよく思われない。カルト化牧師を殺そうとする人はいない。教会員が牧師に対して批判するのは、今のままの教会運営はよくない。改善の要求である。それに対して「手を下してはならない」とは拡大解釈もはなはだしい。牧師が罪を犯しても、教会員の要求は悔い改めてほしいで終わる。しかし、それに対しても拒否である。彼らは頑なである。サウルにも及ばない。このような愚かな牧師に対して従う必要もない。ましてや悔い改めてもしていない牧師を赦してあげる必要もない。教会を正常化しようと思うなら、牧師の犯した犯罪は、刑事事件は刑事訴訟で、民事事件は民事訴訟で、粛々と法の下で裁きを勧めることである。なぜなら、教会は彼の支配下にあり、正しい裁きを期待できない。聖書のもとで平等を得られないなら、法のもとで平等を用いるのも知恵である。虐げられ続けることはない。法廷に立てば、被害者の立場は逆転する。加害者が法で裁かれる。教会では被害者が裁かれてはいなかったか。牧師は教会内で自分の絶対性を強調する。しかし、教会員は教会規則に準拠する教会運営を取り戻すべきだ。教会に独裁者はいらない。独裁者を排除するためには法を用いる。それは悪いことではない。放置していることが悪いことである。
by maranatha
| 2013-01-18 17:15