2013年 03月 24日
源為義
源為義の墓が教会の近くにあることが分かった。七条商店街の一角に石碑が立っているのを、通りがかった車の中から見た。インターネットで検索すると、頼朝や義経の祖父である。
散歩の折り返し点に源為義が住んだ六条館(堀川五条下る)がある。その邸内には古くから左女牛井の名水があり、この名に因んだ通りが、平安京の左女牛小路(幅員約12メートル)である。現在の花屋町通で教会の北に面する通りである。教会は西堀川小路(西堀川を含む幅員は約24メートル)の上に建っている。建築の時、西側の敷地内から川の跡が出てきた。建築の基礎は1メートル20センチ。発掘調査でもう10センチ掘ると瓦が出てきた。釉のない素焼きの瓦で、土を落とすときらきらと金色に輝いた。平安時代は人工の堀川が南北に2本流れていた。一方は堀川で現存し、もう一方は西堀川で10世紀後半に廃絶したようだ。幕末には淀川と結ぶ西高瀬川が開削され、米、炭等の運搬に用いられた。西高瀬川の流路は、現在は教会から数十メートル北を西に流れている。
源為義から話しが逸れてしまったが、歴史ある古都に住んでいると、発見の連続である。為義の墓は元は七条千本辺りにあったと言う。ここは京の七口の一つ、丹波口で、山陰道の起点でもある。
散歩の折り返し点に源為義が住んだ六条館(堀川五条下る)がある。その邸内には古くから左女牛井の名水があり、この名に因んだ通りが、平安京の左女牛小路(幅員約12メートル)である。現在の花屋町通で教会の北に面する通りである。教会は西堀川小路(西堀川を含む幅員は約24メートル)の上に建っている。建築の時、西側の敷地内から川の跡が出てきた。建築の基礎は1メートル20センチ。発掘調査でもう10センチ掘ると瓦が出てきた。釉のない素焼きの瓦で、土を落とすときらきらと金色に輝いた。平安時代は人工の堀川が南北に2本流れていた。一方は堀川で現存し、もう一方は西堀川で10世紀後半に廃絶したようだ。幕末には淀川と結ぶ西高瀬川が開削され、米、炭等の運搬に用いられた。西高瀬川の流路は、現在は教会から数十メートル北を西に流れている。
源為義から話しが逸れてしまったが、歴史ある古都に住んでいると、発見の連続である。為義の墓は元は七条千本辺りにあったと言う。ここは京の七口の一つ、丹波口で、山陰道の起点でもある。
by maranatha
| 2013-03-24 21:54