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村上 密 Blog

宣教

 宣教について学ぶには、『使徒の働き』(16章6~10節)は非常に興味深い。「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」(6)、「ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」(7)。これは、パウロの宣教計画の見直しを迫られる出来事である。彼は、トロアスに到着してから、マケドニヤ人が「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」(9)と懇願する幻を見る。「私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」(10)「確信した」のは、「私たち」である。パウロとその幻を聞いた著者であるルカ、同行者のシラス(15:40)テモテ(16:3)、4人が「確信した」(解釈する/推量する、という意味もある)のである。
 宣教のビジョンに反対する人は少ないだろう。しかし、それを止めるお方がおられることを心に留めておくことは重要である。神からのものであるか、人からのものであるかを吟味するためにである。昨今、預言や啓示を強調する人々が、キリスト教界に増えている。その内容は、神からの「すること」の勧めが多く、「しないこと」の勧めは少ない。上記の箇所は、「聖霊によって禁じられた」「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」である。幻を見て、ひとりの人が即断したわけではない。4人が一連の出来事を検討し合って、決断したのである。ここには、複数による吟味(比較する、調べる、推論する、解釈する)がある。昨今の啓示に関することで不足しているのは、この吟味である。指導者が見た幻、受けた啓示を一同が真に受けて、振り回されることが多すぎるのではないか。指導者が、ビジョンという名の自己実現の協力を取り付けるために、啓示を利用している節もある。また、「ここからリバイバルが起きます」「この教会からリバイバルが起きます」と断言された預言で、実現した地域や教会があるだろうか。このような集会の雰囲気を盛り上げる、空虚な預言はいらない。これこそ、主が忌み嫌わる肉の集会である。外国から招聘された講師たちが、壇上から語る実を結ばない空虚な預言、これは主からではなく、その人の思いである。これらを企画し、招集する人々は、何を目的として取り組んでいるのだろうか。私にはこのような主の名を利用した集会を、神が禁じるように願っているとしか思えない。
by maranatha | 2013-04-07 20:06
宗教問題

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