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村上 密 Blog

教会内暴力

 この10年間、教会の中における暴力が明らかになってきた。特に、弟子訓練を取り入れた教会で、身体的暴力が起きている。訓練の名の下に暴力が振るわれていることを聞いたとき、耳を疑った。人は信じたいものを信じ、信じたくないものを信じない傾向にある。いまだに事実を受け入れていない人もいるだろう。しかし、事実は事実である。教会内暴力が、内部告発され、或いは告訴され、証明されてきた。性的暴力も頻発している。精神的暴力はかなりの広がりである。このような身体的暴力、性的暴力、精神的暴力が、なぜ、教会の中で起きるのか。暴力を許す構造が教会の中にできているのではないか。教団であれば暴力牧師は解任である。自覚ある牧師は辞任する。解任は辞任より重い。辞任は自分の意志で辞めることであるが、解任は辞めさせられることである。暴力が容認されていた教会は、単立が多い。牧師が自分の権威を高め、教会員に服従を強制している。主任牧師が、献身者や教会内で任命された牧師や伝道師を多く抱えていることが共通している。これが、暴力を容認する構造である。主任牧師によって、不服従、不信仰と見做された教会員に対して、言葉の暴力が始まる。すると、次の献身者グループがそれを増幅する。さらに、教会員がそれを共有する。名指しされた人は、精神的居場所を失い、追放されなくても、自ら出るしかない。帰る道は、しばしば土下座である。或いは、集団の中で、「罪」を告白させられ、赦しが与えられる。だれもそういう目に会いたくないので、なるべく牧師の権威に逆らわないような信仰生活をする。すなわち、服従を強化するのは、見せしめという古典的な方法である。カルト化教会の被害者は、よくこの見せしめを証言してくれる。見せしめという鞭がしなるとき、従順にならざるをえないわけである。なぜ、出て行かないのか。教会を去る者に祝福はない。呪われる。サタンの世界に返って行った。悪口が後を追っかけてくる。残った人は、そんな目には会いたくない。不承不承、教会に留まるのである。出来上がった教会内の人間関係は、教会を出たら破壊される。それもまた恐怖である。囲いは恐怖で、離脱したい人にとっては恐怖の囲いを超え、高い塀を乗り越えのは大変である。内部のことはなかなか外部に知られない。ただ、エクソダス(脱出)した勇気ある人によって、その実態が部外者に知らされるだけである。仙台ラブリ聖書教会は弟子訓練でサドルバック・チャーチ(リックウォーレン牧師)より「健康な教会」として表彰されている。韓国のサラン教会からも高い評価を受けている。外からは内情は見えないのである。
(2013.6.17記事)

by maranatha | 2014-06-09 20:55
宗教問題