2013年 08月 16日
田中信生 その教えと矛盾
田中信生氏は、教えの中で「一元に生きる」と「beingとdoing」を強調している。「トータル・カウンセリング・スクールの特徴」を検索すると、「一元に生きる 様々な出来事に対して、これは良い・悪い、幸・不幸と二つに分けてしまいがちです。しかし、『一元に生きる』とは、すべての事の中に大切な意味があり、たとえ最悪と思える状況の中にも必ず希望がある、ととらえる生き方です。」田中氏は、本当に「良い・悪い」を二つに分けない生き方をしているだろうか。彼は仙台では倫理問題を謝罪している。しかし、興譲教会では倫理問題を謝罪していないで使い分けをしている。仙台を失っても生きていけるが、興譲教会を失っては生きていけない。倫理問題は、牧師にとって死活問題である。健全な教会なら、田中氏は解任されている。日本基督教団から独立する時は、多額の献金を教団に捧げて、円満にことを進めた、と話が流れている。独立するのに献金が必要だろうか。最悪の状況の中で生き残る道を選んだに過ぎない。「beingとdoing」を検索すれば、説明が出てくるがここでは省くことにする。田中氏の矛盾は、beingを強調しながら、彼自身は実にdoingに生きていることである。一時は学歴や肩書を詐称していた。蓄財に励み、著名人との交流をしばしば説教で取り上げ、doingを誇らしげに語って悪びれることがない。残念なことに、教会員は田中氏の矛盾する言動に気付いていない。スタッフたちに「beingを強めなさい」と指示する時は、忍耐力、謙虚さ、従順さを含んだ意味で「問わず従うこと」を強制するために使っている。beingが無条件の服従を要求するのに使われているのであって、個人個人の「存在」を本当に考えてではない。田中氏の目的実現(doing)のために駒として使われているに過ぎない。興譲教会の最盛期は17年前である。事の発覚が衰退を促したのだが、終わりが来たのではない。実情を知ろうとしたがらない人、知っていても利害で一致している人に支持されながら、厚顔にも活動を続けている。教会には、黙示録のラオデキヤにある教会のように、目薬が勧められている。
by maranatha
| 2013-08-16 12:37
| 田中信生