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村上 密 Blog

弟子訓練

 カルト化教会の特徴の一つは弟子訓練である。脱会した信者は、弟子訓練と称して受けた虐待行為のゆえに、「弟子訓練」の名称を嫌悪する。脱会者が、教会を探して、その教会の牧師から「弟子訓練」を聞くと、ここもおかしい教会かと思ってしまうほどである。自分たちは正しい弟子訓練に取り組んでいると言っても、感情的に受け入れることができない。
 牧師が弟子訓練をパウロ書簡から引用してする場合、矛盾することを指摘しておきたい。なぜなら、パウロは「弟子」と言う言葉をことさら避けているからである。パウロが良く用いたのは「同労者」である。弟子には師と弟子という上下関係が伴うが、同労者にはそれがない。すなわち、牧師が、弟子という用語を使用しないパウロ書簡から、聖句を引用するのは、パウロの精神を理解していない行為である。
 パウロは同労者に対ししてどのように接したのだろうか。「ピレモンへの手紙」を読むと、「同意なしには」という言葉が出てくる。同労者への配慮として、自己決定権を尊重したことが伺える。このような配慮を、昨今の「弟子訓練」を取り入れている牧師が持ち合わせているだろうか。「煮て食おうが、焼いて食おうが、自由。」と生殺与奪の権を持っているがごとく語る牧師もいる。また、「完全服従」を要求する牧師もいる。権威主義に走った牧師はパウロの教えを理解していない牧師である。
 それでは、イエスの「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)はどうなるのか。弟子たちは、イエス・キリストの弟子は養成した。しかし、自分たちの弟子は養成しなった。よって、パウロの弟子とか、ペテロの弟子とか、ヨハネの弟子とか、そのような用語を使うことはなかったことになる。現代は、イエス・キリストの弟子を養成すると言って、「訓練」をし、牧師の弟子を養成している。牧師の「ビジョン」という自己実現のために、多くの信徒が使役されている。それは「弟子」ではなく「奴隷」である。同意があるだろうか。カルト化した教会においてあるのは、牧師の命令と指示である。
(2013.9.24掲載)

by maranatha | 2014-06-09 20:47 | 弟子訓練
宗教問題

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