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村上 密 Blog

食事に招く それは受け入れること

 ルカの福音書の15章11節から32節をテキストとして説教をするとしたら、題名は「放蕩息子」が一番多いだろう。しかし、テキストに一番合っているのは「二人の息子を愛する父親」だろう。イエスは、15章で3つの譬え話を話された。譬え話に共通するのは、なくす、見つける、いっしょに喜ぶである。この譬え話は、「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。』」(ルカ15:1、2)この非難に対するイエスの反論である。「この人は」が主語で、この食卓の主人イエスである。客は罪人である。この罪人の意味は、ユダヤ社会では、律法を守らない人もしくは知らない人である。教会が使うときは、刑法や民法を犯す人ではなく、イエス・キリストを今もなお信じていない人を指す。なじみのない人にとっては、不快かもしれないが、一般的な概念でこれを捉えないようにすれば、幾分切り替えもできると思う。この聖書箇所では罪人が非難されているのではなく、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにするイエスの寛大さが非難されている。

 15章を理解するために助けになるのは14章である。14章も食事の事が書かれている。「ある安息日に、食事をしようとして、パリサイ派の指導者の家にはいられたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。」(14:1)なぜ、じっとイエスを見ているのか。指導者は罪人を招かないが、「水腫わずらっている人」を招いていた。イエスがどのようにするか、試みるためである。イエスは抱いて直された。水腫の人を抱いてである。病で疎外された状態の人を心から受け入れておられる。イエスはこの食事のとき、食事の心得を2つ譬え話(8~11、16~24、)で教えられた上座に座ってはいけない。貧しい人らを招きなさい。言わば、イエスは14章の教えを、15章で実践しておられる。イエスが招いたのは罪人である。イエスは有言実行の人である。

 食事のことを、もっと学ぼうとするならば、5章も参考にすべきである。「レビは自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。』そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」(29~32)イエスが食事に罪人を招く目的は、悔い改めに導くためであり、また、悔い改めた人々と交わりをするためである。

 食事の問題は、初代教会を悩ませた問題でもある。ペテロは、異邦人クリスチャンを食事を共にしていたが、それを非難された、共に食事をしなくなった。このことをパウロは直接非難している。ペテロは異邦人と食事をするために幻の体験(使徒の働き10章)が無かったら克服できなかったであろう。彼こそ、はじめに異邦人と食意を始めた人である。食事を共にし、パンを割くことは、その人を受け入れる証しである。さらに食事の問題はコリントの教会でも起きた(第Ⅰコリント11章)。そして、キリスト教の歴史中でも起きた。クリスチャン同志でも人種問題で食事を共にしないことがあった。現代の教会でも食事の問題が起きていることだろう。これらを解決する鍵は、このブログで取り上げた聖書箇所が役に立つはずである。
by maranatha | 2013-10-13 22:24
宗教問題

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