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村上 密 Blog

あるべき教会像

 3月15日、御殿山コミュ二ティーセンターで、手をつなぐちいろばの会がセミナーを開いた。私は「あるべき教会像」について語った。いろいろ考えた結果、マタイの福音書から「教会」を取り上げ、その教会に「天の御国の鍵」(16章)が与えられ、それをどのように用いるか(18章)を語った。教会は神の愛と正義と公平を実現するキリストのからだであることを強調した。「天の御国の鍵」は、イスラエルでは律法に基づいて裁判が開かれたが、今後形成されていく教会の中では、罪の問題をどのように扱うか、その権限を与えられていることを意味していると伝えた。罪を犯した人が、罪を認めたら神の正義が実現され、悔い改めたら赦しが与えられて神の愛が実現される。教会では、愛が強調され過ぎて、悔い改めていない人に対しても赦すように求められてきた。罪の問題が公平に教会内で扱われ、悔い改めた人に赦しが与えられてこそ、「地上で解く(赦す)なら、それは天において解かれ(赦され)ている」(18:18)のである。「天」とはマタイでは「神」を表す用語であるから、教会は18章15節から17節の3段階のプロセスを正しく踏まえることが大切である。教会が罪の問題を扱うことは神との共同の業である。この教えに反することがカルト化教会で行われている。それは私的裁判で聖書的ではない。被害者が加害者からだけではなく、教会や牧師から被害を受けるのは神の愛と正義がと公平があらわされていないからである。教会には愛と正義と公平が求められている。イエス・キリストは、十字架の上で私たちの罪をその身に負い、神の裁きを受けられた。そこに神の正義が現された。そこで私たちの罪が赦され、それを信じる者に神の愛が現された。平行線のようにあった神の正義と愛が十字架で交差(クロス)するように、私たちが罪を認め、悔い改めるとき、そこに神の正義と愛が交差(クロス)する。

by maranatha | 2014-03-25 10:39
宗教問題

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