2014年 05月 26日
罪を数えない
キリスト教会で、教会員に紙に罪を書き上げさせるところがある。あるいは、教会員たちの前で、罪を告白させるところがある。あるいは、カウンセリングと称して、罪を思い出すだけ語らせることろがある。罪を赦すお方は神であるから、牧師やカウンセラーに語ったからと言って赦させるとは限らない。罪を清算する方法は、罪を赦して下さる神に対して、悔い改めをすることである。もし、人に損害を与えたのであれば、謝罪し、弁償すれば解決する。
神は「イエスを信じる者を義とお認めになる」(ローマ3:26)パウロは、アブラハムとダビデを引き合いに出して、信仰による義を教えている。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」(ローマ4:3)ダビデは「主が罪を認めない人は幸いである」(4:8)「義とみなされる」も「罪を認めない」も同じである。そして、「認める」とは「数える、計算する」とも訳すことができる。「罪を認めない」とは「罪を数えない」ことである。信仰が義と認められるとは、神が罪を数えない、罪がないものとみなしてくださることである。
クリスチャンに対して、赦されたことまで、赦されていないかの如く、悔い改めなければ裁きを招くと脅すのは正しい教えではない。カウンセリングと称して、記憶のない幼少期や母体の中にいた時まで、聞き出して、悔い改めを要求するところもある。これはキリスト教の取組ではない。罪を数えないと聖書が教えているのに、聖書的と言って罪を数えさせることは惑わしである。
by maranatha
| 2014-05-26 07:41