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村上 密 Blog

だれでもわたしについて来たいと思うなら

 イエスは、弟子たちと群衆に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ペテロはイエスが受難を予告されると、それを否定した。なんとイエスの弟子でありながら「イエスをわきにお連れし、いさめ始めた」(マルコ8:32)ペテロは自分の願望を実現するためにイエスの受難を受け入れることができない。ある意味では、イエスを自己実現のために利用しているのである。ダビデ王国が再興されれば大臣にはなれる。ペテロは、この願望を捨てなければならない。それが、ペテロにとっての「自分を捨て」である。そして、「自分の十字架を負い」とは、「あなたは、若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし、年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネ21:18)と言うイエスの予告である。それは、宣教に伴う受難を含んでいる。

 さて、弟子訓練をしている現代の牧師がこのような心構えを持っているだろうか。弟子訓練は、自己実現のための人材育成になってはいないだろうか。目的は教会成長であり、より大きな教会にするための、低労働賃金の労働者確保になってはいないか。長時間労働を献身の名の下に強制してはいないか。問題を起こすカルト化した教会は、まったく弟子訓練を取り違えている。ノーの言えない奴隷を作っているに過ぎない。ブラック企業ではなく、ブラックチャーチを作っているようなものだ。牧師は、イエスの先を歩き、自分の歩きたい方にイエスを導く。イエスが、それはおかしいと言うと、わきに引き寄せ、いさめ始める。教会成長の何がおかしいのですか。弟子訓練の何がおかしいのですか。これはみなあなたのためにしていることです。イエスは言われる。わたしの後について来なさい。だれでも偉くなりたい人は、仕える人になりなさい。世の指導者のようになってはいけない。牧師はイエスがキリストだと信じているが、イエスが何を求めておられるかを知らないで、自分の願望を神の計画(ビジョン)と取替えている。このような主任牧師に仕える牧師や伝道師たちに、私は忠告することがある。あなたの荷は重いですか。重いです。重いなら、それはイエスの荷ではありません。イエスの荷は軽いとおっしゃいました。何と多くの人々が同じような間違いをしていることだろうか。昔も今も、イエスを利用するが、イエスに従おうとはしない。信仰を、自己実現(自己の繁栄)のために利用してはならない。あなたの願っているようになるは、信仰ではなく信念である。信仰は「あなたの行きたくない所にあなたを連れて」行くことがある。イエスに従う者はイエスご自身から自己否定を要求される。敬虔と思い込んでいる信仰、熱心ではあるが肉の熱心、伝統的と思い込んでいるが聖書的ではない生活習慣、入り込んだカルト的な信仰観等、捨てなければならない。それらは神からのものではなく、神からのものであると装ってあたえられたもろもろである。もう一度イエスの言葉を思い起こそう。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ああ、何と多くの人々がイエスの前を信仰振って歩いていることだろうか

by maranatha | 2014-10-05 21:50
宗教問題

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