2014年 11月 20日
父と母を敬え
神はイスラエルの民をエジプトから救い出された。その民に、シナイ山で十戒を授けられた。その中のひとつが「父と母を敬え」である。この戒めは、信仰共同体であるイスラエルに与えられたのである。「殺してはならない」もこの戒めの中にある。神は、「殺してはならない」と語られるが、姦淫や偶像礼拝をする者を殺せと命じられる。「殺してはならない」は、どんな人も殺してはならないではない。父と母を敬えも同様である。もし、父もしくは母が姦淫したら、または、偶像礼拝をしたら、子は殺す側に立つのである。「父と母を敬え」とあるので、どんな父と母であっても敬わなければならないなら、両親の過ちは即子の過ちになってしまう。信仰共同体は、神を信じ、神の教えに聞き従う人々の集まりである。その中で、信仰に値しない生活をしている人をどうして敬うことを神が望まれるだろうか。神はこの共同体から罪を取り除こうとしておられるのである。だから、「父と母を敬え」は当然、神を信じて生活している父や母を示している。どんな父や母でも敬えは、聖書の教えではなく、ヒューマニズムである。親子関係を抱えている人に、「父と母を敬え」と説く牧師は、聖句を用いているが、聖書の教えを説いているわけではない。虐待を続け、悔い改めもしない両親を持っている人に、「父と母を敬え」とは残酷な話である。虐待の事実を聞いていながら、それを止めようともしないで、ただ、「父と母を敬え」と説く牧師は、虐待する両親以上に罪深い。なぜなら、死に至るかもしれない両親の虐待を放任するばかりか、虐待の継続を許容して、何ら対処もしないからである。虐待によって死に至らしめられる子どもが近年急増している。また、年少期に虐待されてトラウマを抱えて苦しんでいる人々も多い。このような人々に、「父と母を敬え」と聖句を突き付けてはならない。それは神から人々を遠ざける教えである。
ある時、若い女性が教会を訪ねてきた。彼女が、お祈りさせてください、と言ったので礼拝堂に通した。切羽詰まったようなので、お祈りが終るのを応接室の戸を開けて待っていた。少し、お話をして帰られませんか、と声を掛けると、静かに座って、ポツリ、ポツリと話しを始めた。彼女の話は涙を誘うような話であった。両親から虐待され続け、死ぬ前に一度教会に入ってみたい、と思って、教会を訪ねたのであった。両親のことを聞くと、社会的には尊敬されるような高い地位の方である。しかし、子に対してはむごい親である。腕に包帯を巻いていたので、どうしたのと聞くと、包帯を解いて見せてくれた。腕一面が無数の切り傷で腫れ上がっている。祈らせてください、と申し出て、心からその人のために祈った。涙を流しながら、私はこれからどうしたら良いでしょうか、と聞いて来たので、あなたを受け入れてくれる友人がいたら、そこに行きなさいと家出を勧めた。彼女は家を出て、新しい生活を始めた。もし、「父と母を敬え」と聖書は教えていますが、と聞いて来たら、子どもを虐待し、反省もしないで、恐怖で子どもを従わせようとする親を敬う必要はない、と私は応える。
by maranatha
| 2014-11-20 21:30