人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

村上 密 Blog

「かわいそうに思い」と派遣(宣教)

 「かわいそうに思い」(スプランクニゾマイ)は福音書だけにある言葉である。それは。イエスご自身とイエスの語られたたとえ話に出てくる。この言葉が使われる時、イエスは行動を起こされる。深い憐れみから出てくる出来事を見て見よう。イエスは「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)そして、12弟子を呼び寄せ、彼らを派遣された。(マタイ10章)12弟子の派遣は、イエスの「かわいそうに」から始まったことである。教会はこの「かわいそうに」を共有しなければ、宣教は虚しい。
 イエスは、「深くあわれんで」(マタイ14:14)癒しておられる。空腹の群衆を「かわいそうに」(15:32)思いパンの奇跡を行なっている。借金返済の猶予をひれ伏して求めるしもべを「かわいそうに思って」(18:27)免除するたとえ話をしておられる。二人の盲人が目を開けていただきたいとの申し出に「かわいそうに思って」(20:34)癒しておられる。このように宣教に伴う癒しと奇跡はイエスの「かわいそうに」から出ている。
 今日の教会は、あるべき姿から逸脱している。宣教一辺倒で、教会成長が目的となり、祝福が目に見える繁栄に取って代った。信徒は献金と奉仕と服従を要求され続けて、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている。」(9:36)もし「かわいそうに」が牧師の心の中にあるならば、カルト化は起きない。カルト化は、キリストの体なる教会が、キリストの心(かわいそうに)を見失った結果である。
 神は、人々がそのひとり子を拒絶し十字架に架けると知りながら、この世界に御子を遣わされた。御子は、宣教のために、拒絶する世界に弟子を派遣された。私たちも福音を拒絶する世界に派遣されている。それなのに、なぜ、宣教をするのか。それは、救いを心から待ち望んでいる人々いる。神が福音を拒絶する人々を深く憐れんで(かわいそうに思い)救おうとしておられるからである。だから、拒絶されて「はい、そうですか」と引き下がってはならない。なぜなら、拒絶が前提で派遣されているからである。神の「深いあわれみ」「かわいそうに」が教会を通して、私たちを通して、人々に届くように、特に疎外されている人、弱い立場の人、悲しみの中にいる人、病の人、心病む人に届くように願う。

by maranatha | 2015-03-08 20:50
宗教問題

by maranatha