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村上 密 Blog

聖書の通読から精読へ

 聖書の通読を習慣的にしている人は、通読が目的にしているため、知らず知らずに読み飛ばして、理解の深まりがない。理解より読むことが優先されるからである。精読は、聖書の理解が優先されるため、著者が伝えたいこと、強調していること、特徴的な言葉、文の構成を理解するために、、行きつ戻りつ読むことになる。気をつけて読むので、、そんなに読み進めることができない。けれども新しい気付きが与えられるために、聖書の学びが楽しくなる。また、読むだけではなく、調べることも含まれるので、辞典とか、注解書、またはインターネットを使った検索が必要になってくる。私は通読をあまり勧めない。読まないよりは良いが、通読より精読を勧める。そのため、デボーションの為の本も勧めない。ワンパターンな理解の仕方が繰り返されているように思えるからである。そう言いながら、教会では『日々のみことば』(日々のみことば出版委員会)を長年信徒に勧めている。聖書の理解を深めるために5名の教職が水曜日の午前と午後の祈り会で、『日々のみことば』と同じページから説教をしている。『日々のみことば』を読んだ信徒は、伝道師や牧師がどのように語るかを比較して、理解を深めることができる。最近のブログの記事で、何度も読んでいるのに気づきませんでしたとメールが届くことがある。ブログは宗教問題ばかりにならないように気を付けている。人々が求めているのは、問題を知ることや解決だけでなく、真理を知ることを求めていると思うからである。問題を書くのは、惑わされないようにと願うからである。真理を学べば、識別力がついて、理解力が増し加わり、しっかりした信仰生活をおくれるようになる。なぜこんなことを書くのか、勧めるのか。それは牧師がしばしば信徒から奪っている聖書理解を信徒が取り戻すためである。宗教改革は信徒が聖書をそれぞれの国の言語で読めるようにした。しかし、最近、牧師の聖書理解こそが正しいとしてはいないか。どうもこれが牧師の権威主義の原因になってきているように思える。

by maranatha | 2015-10-08 00:05 | 聖書
宗教問題