2016年 01月 15日
困難に対する心構え
多くの相談を受けてきた。相談者や家族にとって、困難と思える相談に、非力ながらも応じて来た。自分の知恵と能力で取り組む心構えだったら、疾うの昔に行き詰っていただろう。神が引合せて下ったならば、神が知恵と力、助成者を与えてくださる、問題を克服させてくださると信じて歩いて来た。自力の考えではなく、全能者(神)が助けてくださる信仰を持って取り組んできた。解決の糸口が見えないような時も、相談者の話に耳を傾けている時にヒントが与えられることがある。切実な訴えに、心を動かされて経験から糸口を思いつくことがある。これは上(神)から与えられた知恵と感得することもある。困難を喜ぶようになったのは、困難こそ、神と出会う時と思うからである。神が介入される時、自分にはこれくらいしかできないと自己規制してきた枠が取っ払われる。無力さを思い知らされることは悲しくもあるが、心の深い所から喜びが湧いてくる。私はこうして困難と思われる道を歩いて来た。それは私にとって重荷ではなく、軽荷であった。それは私が負った荷ではなく、キリストが私に負わされた荷だからである。多くの人々が重い荷を背負って生きている。それは、自分から、そして他人から負わされた荷である。キリストは、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:30)と語られた。あなたは、どの荷を負っているか。
by maranatha
| 2016-01-15 13:48