権威について 19 |
極端なペンテコステやカリスマの牧師は、聖書啓示より個人預言や夢、幻を重んじる傾向にある。このような牧師のもとで育った信徒は、聖書を深く学ぶことよりも、個人預言や夢、幻に走る傾向がある。いつも、「神が○○と言われた。」「○○の夢を見た。」「○○の幻を見た。」といかにも神に近い生活を送っているように思える。しかし、信仰生活や品性が向上しているわけではない。預言は聖書に基づいて吟味されなければならない。しかし、聖書は預言によって吟味される必要はない。必要なのは適切な解釈である。聖書をあまり読んでいない信徒が個人預言に走って、どうやって聖書に基づいて吟味することができるだろうか。自分の主観に基づく判断をするだけである。彼らは、個人預言や夢が実現しなくても、反省もなく、啓示の話をし続けている。牧師がそうだから、信徒は注意されない。それで、教会全体が主観主義に陥り、「私」と言う主語が欠落した話が飛び交う集まりとなる。人の話を聞くのではなく、自分の「霊的」自慢話をする人の集まりとなる。そこにあるのは、いかに自分が霊的かと言う自己主張である。聖書の解釈を十分学んでいない牧師は、自分の解釈が一番正しいと思わせ、大きく聖書から逸脱している。そのような教会には、聖書を知らない「霊的信徒」が育つ。そして、神秘主義に陥ることになる。みことばの飢饉が、「私たちの教会は霊的だ」と思い込んでいる教会に来ている。
2010年9月9日は何事もなく過ぎた。この日、携挙がある(キリストの再臨の日)と主張した人はどのような弁明をしたか。踊らされたクリスチャンは反省をしたか。人が知らないことを神が示してくださることを啓示と言う。神は偽ることのないお方である。だから預言が外れたら、神が示されたのではなく、個人が偽ったことになる。それでもその人について行く愚かな人々がいる。