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村上 密 Blog

特集 赦しなさい 1

「赦しなさい」に関する過去のブログの記事を訂正加筆して特集とした。

赦しなさいが裁きの言葉になっている。赦しなさいと言っている人が、赦せないでいる人を、なぜ赦せないかととがめているからである。赦せないでいる事情をゆっくり聴くこともしないで、紋切型の言葉しか出てこないところに、その人の人間性が現れている。赦せないでいる人と、赦せないでいる人を赦せないで裁いている人と、どちらが人間らしいか。赦せないでいる方だ。赦しを強いる人は、自分は信仰に立っていると思い込んでいる。そのような対応で、赦せないでいる人が変わるとでも思っているのだろうか。赦しなさいと言われ続け、赦せないで苦しんでいる人をさらに痛めつけるだけだ。赦せないでいる人の気持ちを、どれほど聞き、どれほど理解して、赦しなさいと言っているのか。ほとんど聞かないで、言っているに過ぎない。人は悔い改めた人を赦すことはできる。悔改めないで悪を続けている人を赦すことはできない。不法をなすものを放置し、赦すことが愛だと言う世界に平安はない。そこには神の正義が失われているからだ。カルト化した教会には神の正義はない。問題牧師が正義で、裁きを独占している。赦しが強制される教会に和解はない。感情が押さえ込まれているだけだ。その証拠に、それぞれがカルト化した教会を脱会した後、信仰の交わりを続けたいと思わなくなるからだ。うすっぺらな牧師の下ではうすっぺらな和解があるだけで、心の底からの赦しがない。ここに、抑圧されている人の深い苦しみがある。苦しみを言葉にして周囲に言えば言う程に不信仰と言われる。それで、自分の心を押し殺し、信仰的に装うしかない自分に嫌悪感を抱き、自責の念を深めて行く。これでは信仰が育たない。赦しを強制される教会に通う信徒はかわいそうである。

by maranatha | 2016-05-07 00:00 | 赦し
宗教問題

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