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村上 密 Blog

さばいてはならない

さばいてはならない

さばいてはならない。権威主義の教会で被害にあった人が牧師からよく聞く言葉である。聖書はさばきを禁じてはいない。むしろ、正義と公正をもってさばくように教えている。教会の中で起きる問題をさばかないで対処すれば、教会は無法を招き、次から次と問題を抱えるようになる。むしろ、正しくさばくことによって、問題を未然に防ぐのである。

赦しなさい

赦しなさい。これも権威主義の教会でよく聞く言葉である。謝罪も償いも加害者に問わないで、一方的に被害者の声を封じようとする発言である。果たして、牧師が被害者の立場であったどうだろうか。これは実験である。赦しなさいと言った時、殴り、その人の持ち物を壊す。何をするんだと牧師が怒ったら、先ほどの発言が本心かを実験しました。自分が当事者でないと、簡単に片づけようとする傾向がある。それも、さも正しい教えであるかのように。

ごめんなさい

とりあえず、ごめんなさい、と言っておく。謝罪と見せかけた責任回避である。加害者が、簡単に謝罪で済ませて仕舞うことに、何に対して謝罪されたのですかと聞くと、相手は口を閉ざしてしまう。責任を感じて、謝罪しているのであれば、責任の取り方がある。それが心からの謝罪であり、償いである。被害者の損害で事は終わらない。加害者は被害者へ償うべきである。それでも何もしないで加害者が逃げ回るなら、追いかけて、殴って、とりあえずごめんなさいと言っておこう。そして、財布の中にお金がある場合であるが、被害総額を財布から取りだして、自分にかかった費用を支払ってみよう。相手がごめんなさいで済ませるだろうか。私はある人の代理人となってとりあえずごめんなさいで済ませている牧師に対して、何について謝罪されたのですかと質問をしているが、返答がない。逃げ回って2年になる。何度も文書を送っている。最近、教会の週報に牧師のための祈りのリクエストが掲載された。病名は突発性の難聴である。被害者の声に耳を傾けないので、他の人の声も聞こえにくくなってしまった。私は文書でこれからも心からの謝罪を要求し続ける。

*一部に過激な発言があるが実行してはならない。例えばの話である。悪に対しては善で報いなければならない。私的な報復はすべきではない。公的(法)に問うことは問題ない。

by maranatha | 2016-06-03 19:49 | 聖書
宗教問題

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