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村上 密 Blog

正しいと思うと正しいは違う

正しいと思うは、主観的で、正しいは客観的。客観的でも、時代時代に、正しいは変化していく。普遍的な正しいは、神の正義である。教会は、その時代時代に正しさを主張するために都合の良いように聖書を解釈してきた。正義である神から示された。聖書がこう言っている。それは、正しいことを根拠付ける道具であったりする。正しさを強調するとき、見落としているものはないか。

私は、カルト化教会から追放された被害者、自分から脱会した被害者を支援してきた。カルト化教会からは、前者も後者も、悪である。脱落者、失格者、おかしな人、悪霊に惑わされている人、堕落した人、自己出張の強い人、自我が砕かれていない人、肉的な人等々、よくも攻撃する言葉があるものだと思わされる。自分たちを正しいと思い、そうでない人に投げかける言葉が、どんなに深く人の心を傷つけるかを考えない。ここに、自分たちを正しいとする側の見落としがある。

私は救済のために、しばしば、教会規則を取り寄せる。カルト化教会は自分たちが作った規則を守らない。牧師の判断にすべてが左右されている。結果的に牧師の下した判断が誤っていても、謝罪はない。その時はその判断が正しいと思った。なぜ、判断を誤るのか。それは、牧師が判断するための客観的な証言や証拠を求めないで、牧師にとって都合の良いように早々と判断することに原因がある。判断の基準がその時の都合なのである。

人は正しさを求めない。正しいと思うものを求める。正しさを求めると、その正しさが時に自分を裁くからである。正しいと思うはいつも自分を裁くことはない。思うは、いつも自分を安全地帯においてくれる。議論をしないで大人になった人は、言葉に頼らず、感情に流される。議論であれば、自分の足りなさや、根拠のなさ、判断の性急さを指摘されて、立ち止まることもできる。しかし、思いは同調しやすい人々の中では早く伝搬するした。自分を失った人は、周囲の雰囲気に同調し、自分の安全を計る。集団主義は、個人を捨てさせ、集団の利益を求める。その行き着くところは、その集団の指導者の利益である。そこに正しさはない。

by maranatha | 2017-01-01 15:25 | カルト化
宗教問題