2017年 02月 07日
神のわざ
「すると、彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』(ヨハネ6:28、29)神のわざが2回書いてある。同じではない。前者は複数であり、後者は単数である。前者は、わざを行いととっているが、後者は信じることである。質問者は、永遠の命を得るために、たくさんの善行を積むことを考えていたのかもしれない。
「『あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。』」(ヨハネ8:39)「わたしは真理を話してるために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」(ヨハネ8:45、46)アブラハムのわざとはなんだろうか。それは、創世記に書いてある。「『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』彼は信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(15:5、6)アブラハムのわざとは神のことばを信じることである。
「イエスは言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』」(ヨハネ8:58)ヨハネは「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:1、14)とイエス・キリストについて証言している。これはことばが人となる前に存在しておられたことを証言しているところである。バプテスマのヨハネもまた「私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私よりも先におられたからだ』と言ったのは、この方のことです。」(ヨハネ1:30)と言って、イエスの先在性について語っている。「わたしはいるのです」(8:58)が新共同訳では「わたしはある」と書いてある。それは、モーセの問いに「わたしはある」(出エジプト3:14)と応えられた神である。
私たちは、アブラハムに語りかけ、モーセに語りかけられた方が受肉以前のイエス・キリストであることを以上から学んだ。このお方がわたしを信じるように招いておられる。ヨハネの福音書が書かれた目的は「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)イエスを信じるように書かれてある。いのちを永遠のいのちを得る方法は、人のわざではなく、神が遣わされたひとり子を信じることである。私たちは神のわざをすることができる。それは奇跡を起こすことではない。イエスをキリスト(救い主)と信じることである。
by maranatha
| 2017-02-07 20:55
| 聖書