2017年 06月 15日
献金 2
クラウディウス帝の在位は紀元後41年ー51年である。アガポが「世界中に大飢饉が起きると御霊によって預言した」(使徒11:28)のは紀元46-47年に起きたユダヤの飢饉と思われる。この飢饉が起きたとき、アンテオケ教会の「弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。」(使徒11:29)バルナバとサウロをエルサレムの長老たちに遣わし、救援の物(献金)を届けさせた。
「献金」は力に応じてであって、強制ではない。律法にある十分の一でもない。コリント人への手紙の1と2に出てくる「献金」はすべて、エルサレムへ届ける救援の物である。今日のような宣教や教会運営のための献金ではない。それゆえ、パウロが言うところの「献金」は、紀元46-47年に起きたユダヤの飢饉以後に出てくる言葉である。それ以前は、「献金」ではなく「代金」(使徒4:34、37、5:2、3)という言葉が使われている。「献金」は諸教会からエルサレムへの救援の物であり、「代金」はエルサレムの中で「必要にしたがっておのおのに分け与えられた」(4:35)お金である。
「代金」は初代教会から始まったものではない。「『国のうちにいるあなたがたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」(申命記15:11)これは主の命令である。初代教会は、この教えを、当時のユダヤ教徒以上に実践した。それは憐れみ深い神が望んでおられることだと知っていたからである。そしてそれはイエスの教えでもある。「施しをするときには、人に褒ほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。・・・施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。」(マタイ6:2、3)教会の週報に献金者名と金額を書く教会があるが、何か間違っていないか。
「献金」と「代金」に共通することがある。それは貧しい人々への捧げものである。教会が「献金、献金」と強調して、それも旧約聖書の「十分の一」を引き合いにして「献金」を強調し、個教会の経済が潤い、繁栄を謳歌したり、高額な牧師給を支払うような教会の有り方は、全く聖書的ではない。「献金」は「平等」(2コリント8:13、14)を図ろうとしておられる神のご計画にたずさわる業である。
by maranatha
| 2017-06-15 22:21
| 献金
