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村上 密 Blog

『ある家で』

 ある家を訪ねた時のことを思い出した。お母さんが這って玄関まで迎えに来られた。娘さんがカルトに入信してから、心労が重なり、とうとう歩けなくなった、と聞いた。その日、娘さんは私を見るなり、さっさと2階の自分の部屋に逃げ込み、内側から鍵をかけてしまわれた。茶の間でお父さんと話をしていたら、研ぎ込んだナイフを持ち出してこられた。「先生の話を娘が聞いてもわからないときは、娘を殺して自分も死のうと思います。」と悲しげに語られた。このまま帰ったら、最悪なことが起こりそうである。茶の間で、のんびり猫が横になっていた。一家の一大事を知らないねこに一仕事してもらおうと思いつき、ねこを階段下から上に追いたてた。声をたてずに、すさまじい顔を作って威嚇すると、驚いたねこは救いを求めて娘さんのドアにカシィッ、カシィッと爪をかけた。すると、娘さんがドアを開けて、ねこを部屋に入てくれた。鍵の音が、カチャッとした。 その日、お姉さんが小さいお子さんをつれて来ておられたので。しばらくその子と遊び、「2階のお姉ちゃんのところへ行って遊んでくれる」とお願いをした。聞き分けのよい子で、這って2階へ上がって行き、何か呼びかけた。すると、娘さんはねこを入れたように、その子も部屋の中に引きいれてくれた。また、鍵がカチャッと音を立てた。しばらくすると、中で遊んでいる様子が階下に伝わってきた。今度は、「お母さん、すみませんが、2階へ上がって、少し娘さんと話してくれますか。お孫さんにお菓子を持って来たとでも言って中に入ってください」と、不自由なお母さんに申し上げた。「ころあいを見て、私を呼んでください。そうしたら私は部屋へ入れます。」お母さんは這って2階へ上がられた。私はしばらく階下で様子を伺いながら時を過ごした。お母さんの呼ぶ声が聞こえたので、<神さま、彼女の心のドアを開けてください>と祈りながら、鍵のかかっていないドアを開けて部屋に入ることができた。名画『七人の侍』の中に、侍が、大切な頭を剃り、坊主のけさを着、にぎりめしを持って、子供を人質にして家に籠もる悪党に近づく場面がある。侍は悪党が安心するように、空腹を満たすように状況を整え、それから子供を救い出した。荒々しい取り組みをしたら、結果は火を見るより明らかである。人を救うという行為は気持ちだけでは救えない。回りにあるものを活用することも必要だ。私は娘さんには、ゆっくりとした口調で、手短に話を済ませる旨を伝えた。背を向けてしゃべらない娘さんに、話を続けるのはしんどいことである。ときには、お母さんに話を向けて間を持たせ、ことわりがないことをこれ幸いに、数時間話した。最後に耳を傾けてくれたことに、お礼を言って部屋を出た。この日、娘さんは自分の信じていた教えの誤りに気づき、カルトをやめる決心をされた。帰り際に、お父さんが記念にナイフをと申し出られたが、お断りした。この家での場面は今も忘れることができない。クリスチャンになった頃、新約聖書の『ヤコブの手紙』を読んでいた時、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」(1:5)という御言葉を見つけた。私は「ここに知恵の欠けたものがおります。私に知恵を与えてください」と神様に申し上げた。後で知ったことだが、その知恵は「上からの知恵は第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます」(3:17、18)とのことである。「上から」とは「神から」の表現で、知恵は知識の応用というより、品性や人格的なことを指している。不十分な理解で祈ったあの時から、30年が経った。今日まで、聖書の言うところの「知恵」を祈り求め続けている。そして、人々の救いのために自分の生涯を献げる道を32年歩いきた。
by maranatha | 2013-04-12 22:56
宗教問題