2017年 07月 13日
石の本遺跡
1995年3月1日、熊本日日新聞の新生面に下記の記事が掲載された。この記事を切り抜いて長い間机の引出しに保存していたが、ブログに掲載することにした。石の本遺跡は考古学上の発見のニュースでは私にとって最もうれしいニュースである。それは故郷の託麻三山の小山山の東麓のことだからである。近くに父の生まれた家も先祖の墓もある。墓の北側が石の本遺跡である。祖母が畑仕事をした場所は果実連の北側にあるが、その付近には託麻水源地の取水井がある。健軍川のもう一つの最上流である。この付近から1.5キロ浅い谷を東に進んでいくと、六道塚古墳がある。この付近には、弥生式土器が散布している。また遺跡等が散在する。周りは畑であるが、地理院地図の治水地形分類図(1)を見ると浅い谷の微高地で、古くはこの辺りから水が流れていたと思われる。石の本遺跡の付近にも浅い谷がある。ここも同じように水が流れていたと思われる。というのは、六道塚古墳は辛川、唐川とも言われ、この少し北側から白川にかけて浅い谷を形成している。ここが昔川だった可能性がある。そうすると川がないのに唐川と名前がついた説明がつく。六道塚古墳の地下は白川から浸透した地下水が豊富に流れている。小山山西麓には小山神社があるが、ここから流れる水は藻器堀川に流れ、やがて水前寺公園に、それから健軍川に合流する。小山山から水前寺近くまで低地が続いている。この川沿いはよく氾濫する。小山山は健軍川の最上流でもある。小山山の麓は3万年前から人が住み着き、各時代の遺跡群が集まっている。地形と集落形成の鍵は水である。水がなければ人は住めない。しかし、水な無いような場所に古い時代に人が住んでいたのは、実は水があったからである。失われた水を捜すのに地理院地図の治水地形分類図は役に立つ。
「熊本市平山町の石の本遺跡から約三万年前の打製石器が出土した。「県内最古」と県文化課は発表したが、考古学関係者によれば、「まとまって出土した例では西日本最古」の大発見だそうだ▼いったい、三万年前昔とはどんな時代なのか、マンモスやナウマン象がまだのっしのっしと歩いていたころだ。ヒトでいえば、私たち直接の先祖となるホモ・サピエンスが出土した時期とも重なる▼出土した打製石器は約三千点。大きいもので十㌢ほど。大半は三、四㌢大で手のひらにのせたら、いかにもかわいい。安山岩を打ち割って薄片にしたあと、形を整えたものだ。肉を割いたり、皮なめしに使ったりとさまざまな道具として用いていたらしい▼火山国の日本列島は大量の噴出物が地層を造っている。その地層の絶対年代が分かれば、出土品の時代も分かる。発見された石器はシラス層の下から出てきた。このシラス層は鹿児島の姶良カルデラの火砕流によって造られたものだ。とすれば、この石器を使っていた人々の子孫たちは、すさまじい火山活動に巻き込まれたはずだ▼氷河期によっては朝鮮半島とつながっていた時代もあるらしい。シラス層の上から出土する石器は朝鮮半島のものに似ており、火山噴火を境に九州では大陸からやって来た旧石器人にとって代わられたという説をなす人もいる。▼古代のことになるとついロマンを抱いてしまうが、事実はもっと過酷なものだったに違いない。自然の厳しさにただただ翻弄され続けてきた。それは文明社会の今日もそう変わらない。しかし、したたかに生き続け、いま、私たちのいのちととながっている。」
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by maranatha
| 2017-07-13 22:08
| 故郷