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村上 密 Blog

全き者とは

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」(創世記17:2)この聖句が、倫理的な要求であれば、アブラハムは失格者である。しかし、信仰であれば、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5)とある。「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸を、こう言っています。『不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。』」(ローマ4:7,8)全き者であれは、行いではない。倫理的完全の要求ではない。義は与えられるものであって、獲得するものではない。「律法を行なうことによっては、だれ一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ3:20)パウロは、信仰による義、神の前に正しいとされる道(ローマ3章21~5:21)を教えている。「義の賜物」(ローマ5:21)でわかるとおり、義は神から与えられるものであって、自分で獲得する義(自己義)ではない。神の前には「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)行いとは別の道、神の前を歩み(信仰生活を)続けよう。
by maranatha | 2018-03-07 21:22 | 聖書
宗教問題

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