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村上 密 Blog

絶対と服従 相対と自由

牧師を神の代理人と考えている人は、牧師を絶対化していることになる。神に背くことができないように、牧師にも背くことができない。そこにあるのは服従だけである。背くことは背信の罪であり、死であり、地獄である。救われるために牧師に何でも従うことになる。そこにあるのは、イエス・キリストによる救いではなく、牧師に従うことによる救いである。牧師に対して疑問を持つことさえ、不信の罪となる。これが絶対と服従の関係である。もし、牧師が言っていることを、人間だから間違うことがあるかもしれない。書店で買ってきた本を読んで、この教えの方が正しいように思える。疑問に思ったことを、自分で調べ始めて、いろいろな人の本やブログを読んで見て、牧師に疑問を持ち始めたとしよう。牧師を相対化することによって、他の教えに耳を傾け、どれが正しいのだろうか、と考えて、自分で判断することが始まった場合、そこにあるのは、選択の自由である。しかし、その選択には責任が伴う。それが自己責任である。人は、考えることや選択することへの不安や悩みから逃れるために、自分より経験豊かな人、知識を持っている人に依存して、自分で考えたり調べたりすることを放棄しがちである。実はこれが自分を奴隷として他人に自分を売り渡す行為だと知らないでいる。考えるということをしない人は、権威主義の人の餌食となる。あるいは、いろいろな情報に振り回されて人生を過ごすことになる。絶対と服従、相対と自由、どちらにも危険が伴う。それでも私たちはこのことを意識の外に追いやるのではなく、日々の営みの中に自分で考えることを実践していかなければならない。
by maranatha | 2017-11-11 16:04 | カルト化
宗教問題