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村上 密 Blog

最高の務め

クリスマスに最もふさわしいのは礼拝である。マタイの福音書2章から礼拝の大切さを学ぶことにする。東方の博士たちの長い旅の目的は礼拝である。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(2)異邦人である博士たちが当時の地理的に最も遠い地からやってきたのである。出発するまでの準備は多忙を極めたであろう。道中の危険もあったであろう。にもかかわらず、礼拝するために彼らは旅立った。彼らは「ユダヤ人の王」は言っているが、ヘロデは「ユダヤ人の王」をキリストと理解している。博士たちはそれを否定していない。彼らはキリスト(救世主、メシア)を拝むために旅立ったのである。彼らは学問的な興味から旅だったのではない。礼拝をする信仰の旅である。私たちはどのように礼拝に取り組んでいるだろうか。礼拝は最高の務めである。これを最優先にして生きているだろうか。それには犠牲が伴う。しかし、大きな喜びもまた伴うのである。王宮で教えられたベツレヘムへ再び星に導かれて、ある家まで来た。まだ、家の中におられる御子を見てはいないが、その家の前で「彼らはこの上もなく喜んだ」(2:9)とある。そして、旅の目的である礼拝を家の中に入ってしたのである。それも「ひれ伏して拝んだ」(10)とある。ここにおいて「拝みに来ました」という目的が「拝んだ」という結果になっている。願いは達成されたのである。ヘロデは博士たちに「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい、私も行って拝むから」(8)と言っている。これは敬虔を装った欺きである。彼は自分の地位を脅かす「ユダヤ人の王」を殺すため、ベツレヘムの2歳以下の男の子は皆殺しにしている。そして、彼はキリストを殺したと思って間もなくして死んだ。彼は長く王位に留まりたいと思ってキリストを殺したが、そのようにはならなかった。礼拝に偽りがあってはならない。真心からの礼拝こそが神に喜ばれる。

私はキリスト者となった頃、礼拝は日曜日の礼拝会と思っていた。やがて、礼拝は信仰生活そのものであることがわかってきた。そして、礼拝はこの地でだけではなく、天においても礼拝があることを知った。地方教会における礼拝があり、公同教会の礼拝がある。礼拝は続いている。これは終わることのないキリスト者の最高の務めである。礼拝を交わりと言い換えても良いだろう。なぜなら、私たちは日曜日の礼拝会に参加する時、また、普段の生活で礼拝をささげるとき、神と交わりを求めているからである。賛美をささげ、祈りをささげ、神の言葉を聞くために、臨在を求めて礼拝をささげている。

by maranatha | 2017-12-17 21:46 | 聖書
宗教問題