2018年 02月 20日
宣教 2
使徒の働きの構造についてはすでに述べた。この使徒の働きを人物で別けると、ペテロとパウロを中心として別けることができる。「それは、ペテロにみわざをなして、割礼をうけた者たちへの使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。」(ガラテヤ2:8)というパウロの言葉によっても伺われる。ペテロはヨハネを同道した。パウロは、初めはバルナバ、それからテモテやテトスを同道した。シラスやルカなどもそうである。ペテロは二人で行動し、パウロはグループで行動している。宣教は複数が効果的である。
異邦人伝道はパウロによって始められたわけではない。ペテロの説教でカイザリヤではコルネリオと親族や親しい友人たちが救われている。このことはエルサレム会議で異邦人が信仰によって救われることを認める大きな要因となっている。異邦人伝道のセンター的な役割を果たすようになったアンテオケ教会の始まりは、名もないキプロス人とクレネ人がアンテオケに来てからギリシャ人にも語りかけたことがきっかけである。そのアンテオケにバルナバ、それからサウロ(後パウロ)が加えられている。しかし、異邦人伝道はイエスによって「あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」(使徒9:15)と召し出されたパウロである。その働きはアンテオケの指導的な人々が「断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。」(13:3)ことから始まる。大切なことは、異邦人伝道が個人の働きではなく、教会の働きとして承認されていることである。宣教は個人のわざではなく、教会の業である。
by maranatha
| 2018-02-20 09:30
| 教会