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村上 密 Blog

誤用される聖句

「そもそも、互いに訴え合うことが、あなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」(1コリント6:7)この節を文字通り受け止める人は不正を正さない人、だまされ続ける人になる。パウロはクリスチャンがこのようになることを願ってはいない。そもそも、コリントのクリスチャンは互いをどこに訴え合っているのか。教会ではなく、世の裁判所である。当時、裁判所は不正が多かった。権力者は権力で、金持ちは財力で有利な判決に持っていくことが日常化していた。そんなところに正しい裁きがあるはずもないので、そんなところに訴えるのは敗北である。公正な裁きがないと言う前提であれば、判決そのものに正当性はない。互いにクリスチャンであれば、裁判にする前に話し合って解決すべきである。なぜなら、聖書に「なぜ、何が正しいかを判断しないのですか。あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。あなたに言います。最後の1レプタを支払うまでは、そこから決して出てこれないのです。」(ルカ12:57~59)事実、パウロが訴えられた事例では、「彼(ペリクス)はパウロから金をもらいたい下心があったので、幾度もパウロを呼び出して話し合った。二年たって後、ボルキオ・フェストの後任になったが、ペリクスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロを牢につないだままにしておいた。」(使徒24:26~27)2年も牢に入れられたままである。これが当時の現実であった。もう一つ例を挙げると、イエスの裁判官のたとえがある。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」(ルカ18:2~5)これもまた、当時の裁判官のありようを知ることができる事例である。互いが和解できなければ、それは裁判に持っていくべきではなく、教会の中で正しく裁かれるべきである。それをしないで、世の裁判に訴えることは敗北であると言うのである。これを今日の裁判にそのまま応用するのは早計である。カルトやカルト化した教会の中で正しい裁きがあるはずもない。その中で訴えてもそこには不正な裁きがある。それこそが敗北である。そこには公正はない。指導者と組織の利益が優先されることが裁きの判断基準だからである。このような教会での裁きを期待しないでむしろ世の裁判に訴えたほうがまだましと言う現実こそ教会の敗北である。被害者である信者の敗北ではない。正義と公正がない教会の敗北である。このようなカルト化した教会には十字架があるがそれは形だけである。聖書の教えが息づいていないからである。牧師が一つ覚えの「赦しなさい」をたびたび言うのは問題を正しく裁けないことを認めていることになる。パウロは教会の中に「兄弟の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(1コリント6:5)と語りかけている。赦しなさいは仲裁ではない。正しく判断をしないならば加害者への加担である。教会の中で正義と公平を持って裁く人がいないなら、教会は教会性を失ってしまうことになる。すなわち、もはや教会は教会ではなくなっているわけである。どんなに礼拝会や祈り会に出席者が多くても、賢い者のいない教会、正しい判断をすることにできない教会となる。不正が正されず、不正のはびこる教会、だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まりとなる。
by maranatha | 2018-04-19 11:46 | 聖書
宗教問題

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