2018年 06月 06日
教会のカルト化
なぜ、キリスト教の一部がカルト化したか。1980年代から教会成長がブームになった。この頃からカルト化が始まった。伝道に特化した教会の取り組みは、教会成長を促した。それに伴って、家族的な交わりを保っていた教会で牧会が手薄になった。さらに、弟子訓練を取り入れて伝道を推進していくため、牧会できる許容範囲を超えてしまった。牧会は時間がかかるものである。その牧会の手間を省くために、一部の教会が牧会ではなく統制や支配に移行し、セルで吸い上げた個人情報を信徒の信仰管理に使い始めた。イエスの弟子訓練を名目に実態は牧師の弟子づくりになり、牧師への服従が従順に置き換えられた。聖書の生活化ではなく牧師のビジョンという名の自己実現に賛同することが信仰的とみなされ、牧師に権威が集中する体制が教会の中に形成された。さらに霊的戦いを教会に導入して、牧師の権威は一層高められた。一致団結して戦うためには指導者が必要で神の代理人を名乗る牧師がその役割を果たした。神の代理人に逆らう者は不信仰者、悪魔の影響を受けている者、悪霊の惑わされている者と言われ、教会に居ずらくされていった。役員会はイエスマンで固められ、牧師の暴走を止める役割を果たさず、教会総会も報告と手早く承認を取り付ける場となった。簡略化された報告では実態はわからない。総会は質問ができる雰囲気ではない。教会規則は名ばかりで、規則を無視した運営がまかり通るようになった。そうして教会のカルト化が急速に進行していった。
教会成長、弟子訓練、セル、霊的戦い、こういったムーブメントを導入している教会は一様にカルト化しているとは言わないが、カルト化した教会に共通しているので気を付けてほしい。いつ牧師がアクセルを踏んで暴走するかもしれない危険をはらんでいる。なぜなら、思いのほか牧師に権威が集中しているからである。牧師が黒を白と言ったら白、牧師が何か間違っても牧師に従ったら神が祝福してくださると言ったら、はやく教会を去ることである。教会内に留まり改革してくのは覚悟が必要である。同じ志を持った人々が協力しなければ、改革は達成されない。改革する支援体制ができなければ、孤立無援で傷を深める。
改革する人が教会からいなくなると、牧師は暴走しやすくなる。それは墓穴を掘る状況ができたことになる。ただ終焉を迎えるまで、残った教会員が痛む出来事が起きることでもある。
by maranatha
| 2018-06-06 16:25
| カルト化