2018年 08月 11日
王を求めることの誤り
1サムエル記8章から10章で、民は王を求めた。神は民がサムエルを退けたのではなく、わたしを退けたのであると語られる。それでも神は民の要求を受け入れられた。それは民へのイエスであり、ノーであった。というのは、民が望むような他の国の王のようにではなく、神は王の権利を定め、サムエルに王を立てよと語られた。サムエルはサウルに油を注いだ。そして、神は、外国の王のようではなく、主の霊を激しく下して王を立てられた。
信徒はどのような牧者を求めているだろうか。リーダーシップのある指導者を求める傾向にあるのではないか。聖書は仕えるものでなければならないと教えている。牧師のいない教会では、牧師が与えられるように祈り求める。できれば、リーダシップのある牧師を求める。しかし、その結果どんなことが教会に起きているだろうか。権威主義的な牧師の下で信徒はあえぐことにはならないか。牧師が仕える人で、信徒が仕える人であったら、教会はどんなに麗しいことか。そんな教会を私たちは目指さなければならない。
by maranatha
| 2018-08-11 21:26
| 聖書