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村上 密 Blog

聖書と法

パウロの裁判については、使徒の働き25章に書いてある。「祭司長たちとユダヤ人のおもだった者たちが、パウロのことを告訴した。」(2)裁判はカイサリアで行われた。ユダヤ人たちは「重い罪状を申し立てた。しかし、立証することはできなかった。」(7)ところが、ユダヤ人の機嫌を取ろうとしたフェストはエルサレムでの裁判を提案した。しかし、パウロは「私はカエサルの法廷に立っているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。」(10)と言って断り、「カエサルに上訴」(11)した。罪を犯していないパウロは、エルサレムでの裁判より公平に扱ってくれると判断して、カエサルに上訴した。それは賢明な判断である。なぜなら、フェストは「パウロからお金をもらいたい下心があった…ユダヤ人たちの機嫌を取ろうとして、パウロを監禁したままにしておいた。」(24:27)からである。パウロは自ら告訴したことはないが、告訴された。ローマの法に基づく裁判を希望している。彼は世の裁判を否定していない。ローマ市民としての権利、裁判を受ける権利を行使した。キリスト教の中には裁判を悪く言う風潮がある。教会の中で公平に教会の中で起きた事件を扱う法も持たないのにである。公平に扱う力と知識を持ち合わせているだろうか。まともに教会規則に基づく教会運営もできなくて、裁判を否定する発言を聞くと残念である。聖書の中から裁くことの大切さを学ばないならば、世の裁判を選んだ方がまだましである。
by maranatha | 2019-07-22 22:24 | 裁判
宗教問題