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村上 密 Blog

イエスはどんな人

マタイの福音書では、「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆるわずらいを直された。」(4:23)と「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」(9:35)との間に、イエスの教えといやしが書かれてある。これはイエスの教えといやしが、ここから始まり、ここで終わることを示している。その中で、教えは「イエスは山に登り」(5:1)から「イエスは山を降りて(8:1)」までで、山上の垂訓とも言われている。いやしは8章と9章である。その中で「これは、預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。『彼は私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」(8:17)が中心になる言葉である。マタイは王なるイエスを伝えている。それは権力を振り回す王ではなく、罪人を招き、神に立ち返らせる王である。8章の初めのいやしは、重い皮膚病にかかっている人に対してである。この病にかかっている人は、イスラエルの社会から疎外されて暮らしている。イスラエルの一般の家には入れない。次のいやしは、百人隊長のしもべのいやしである。百人隊長としもべは異邦人である。百人隊長はイスラエルの社会を知っていた。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」(8:8)マタイの9章では、イエスがザアカイの家に入られて、食事をされているとき「これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。』」(9:11)イエスは「わたしは罪人を招くために来たのです。」(9:13)と答えられた。イエスは、罪人、そして、社会で疎外されている人々を招き、あるいは招かれ、罪を赦された人々と交わりをされた。これは、私たちの「王」と言う言葉の概念にはない。ここで私たちは既成概念を捨てなければならない。この王は、美しく着飾った人々の囲まれた王ではなく、富んでいる人々の囲まれた王でもなく、罪を赦された人々に囲まれた王である。

by maranatha | 2020-02-03 08:59 | 聖書
宗教問題