神がモーセをエジプトに遣わそうとされたとき、モーセはいいわけをした。モーセは「私はいったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」(出エジプト3:11)次のいいわけは13節にある。その次のいいわけは4章1節にある。そしてその次のいいわけは10節にある。さらに13節では断っている。いいわけは断るためためだった。ギデオンもいいわけをしている。6章13節にいいわけがある。次のいいわけは15節である。その次は17節である。私たちが信仰の勇者だと思っている人物たちがこうもいいわけをしていると、私たちとあまり変わらない人に見えてくる。しかし、どこが彼らと私たちと違うのだろうか。彼らは不承不承ではあるが神に従った。神は従ったがゆえに、彼らを助けられた。何事にも応答しない人がいる。現状維持のままが変化に対応していくよりいいからである。現状維持がけっしていいわけではない。いろいろなことが変化していく中で、変化に対応しなければならないことがある。かつてはよくても、これからは通用しないことが起きてくる。いいわけには「だって~」「でも~」「どうして~」「どうせ~」「~だから」「もし~」「また~」がある。信仰を成長を望むなら、聖書の教えに対していいわけを捨てて取り組むことである。