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村上 密 Blog

赦し

「ペテロがみもとに来て言った。、『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。』イエスは言われた。『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。』(マタイ18:21,22)ここはイエスが赦しを強調しているところである。罰を与えることを禁じているわけではないことは、文脈を重視して読めばわかることである。「もし、あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるならば、あなたは自分の兄弟を得たことになります。」(15)それから、「聞き入れないなら」(16、17、17)と3回聞き入れない場合が段階的に語られており、聞き入れない場合の最終的判断は、「彼を異邦人か取税人ように扱いさない。」(17)とイエスは言われた。これは教会の交わりに入れないことを表現することばである。悔い改めない者への重い処分である。ここは、赦すことと裁くことが教えられている箇所である。

「その時」(21)とは、イエスの15節から20節までの話を聞いて、これに対する質問をペテロが発する「その時」である。話は続いているのである。ここで、「兄弟が私に罪を犯した場合」の「兄弟」は先の「兄弟」(15)を指している言葉である。七の七十倍と語られたイエスが譬えを話された。その譬えには赦しと裁きが語られてある。王が家来の負債を免除してあげた話であるが、これは返済の猶予をお願いし、返済すると言っている家来に対してである。自分の罪を認めない、負債を返さない人を赦しなさいではない。赦しは自分の非を認め、免償しようをする者への勧めである。もちろん、償いを受取るなという教えでもない。この赦された家来に対して借りのある仲間がいた。彼に借金返せとせまり、猶予を懇願する仲間を牢に放り込んだ。これを知った仲間たちが王に一部始終を話した。王はあわれみのない家来に対して「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」(33)と語り、「負債をすべて返すまで彼を獄吏に引き渡した。」(34)あわれみのない者への厳しい教えでもある。「あなたがたも自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」(35)自分の罪を認め、謝罪し、弁済しようとする者への猶予を語ておられる。この35節の「兄弟」は18章15節から続いている兄弟と関係している。

今日の教会の一部では、「七の七十倍」だけを強調し、一方的な赦しを迫る傾向にあるが、それはイエスの教えに反する取り組みである。ルカの福音書では、はっきりと悔い改めたなら赦すように教えている。このことはマタイの福音書と何の矛盾もない。「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て、『悔い改めます。』と言うなら、赦しなさい。」(ルカ17:3、4)今日、被害者のもとへ来ることもしない、謝罪もしない、悔い改めもしない者へ、赦しなさいが強調されている。間違った赦しが、被害者を責める言葉になっていることに気づかないで、赦しなさいと言って裁いている。おかしいではないか。


by maranatha | 2020-10-08 23:21 | 聖書
宗教問題

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