2021年 02月 08日
7回
エリヤはカルメル山で若い者に「上って行って、海の方をよく見なさい。」(1列王18:43)と7回繰り返した。若い者は見た事実を繰り返し報告した。エリシャはナアマンに「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元のとおりになって、きよくなります。」(2列王5:10)と告げた。ナアマンは激怒した。しかし、彼のしもべの忠告で7回ヨルダン川に身を浸していやされた。人は自分が行うことに意味を求める。意味が分からないとやる気がわかない。わかっても重要性を見出さないとやろうとしない。無意味と思われることの繰り返し、重要性がないと思われることへの取り組み、これらは誰もが避けたいことである。若い者は従ったが、重要な職務にあるナアマンは反発した。立場の違いも、無意味と思われることへの取り組みに影響を与えるかもしれない。しかし、一番影響を与えているのは信仰と思われる。若い者は神を信じ、エリヤを信頼して従て来た。繰り返すことを、心の中でどのように思ったかは聖書に書いていない。ただ、彼は従った。私たちは自分の信仰生活に意味を見出そうと懸命である。しかし、求めているときに意味が分かるのはそう多くない。後々に、ああこうだったんだ、と納得いくときがある。いろいろ経験を積み重ねて見えてくるもの、悟ることのできることが人生にはある。神はどのようなときにも、神に従うものを求めておられる。従って何があるのですか、何の利益があるのですか、と尋ねる者ではなく、言われたことに従ってくるものを求めておられる。私の経験で申し上げるならば、21歳の時、イエスをキリストと信じ、この身をお捧げします、と祈った。どのような人生が待っているか皆目わからない。信仰の歩みの中で、折々決断の時があり、主の御心を求めて祈り、決断して歩んできた。意味を求めてではなく、私の人生に意義を与えてくださる神を信じて歩いて来た。
by maranatha
| 2021-02-08 20:18
| 聖書