2021年 03月 19日
献金に駆り立てるからくり
カルト化した教会は、祝福を求める祈りを熱心に勧める。その為には、関連する本を推薦したり、そのことを強調する著名な講師を教会の特別集会に講演者として招いたりする。教会員の目を「祝福」に向かわせる。教会員の祝福願望を肥大化させるわけである。そして、祝福を得るためには、十分の一献金を強調する。確実に実行させるために、十分の一献金をしないと、神のものを盗んでいる、と言って教会員を罪人扱いにする。実践している人を取り上げて、同調圧力を加える。祝福か泥棒かの二者択一は、あまりにも単純化された構図の為に、聖書を深く知らない教会員を追い込むことができる。祝福は、献金を多くすればするほど祝福されると牧師は煽る。したいと思ってしなかったら、したいと思った金額が何かで失われる、と将来の禍で縛る。こうして献金=祝福に誘導していく。これは経済的搾取である。
新約聖書にある異邦人教会では、十分の一献金が奨励されていない。「献金」は困窮しているエルサレム教会を支援する基金として集めているものである。イエスの時代、イエスは、神のものは神に、カイザルのものはカイザルにと言われた。宗教的な捧げものと支配者であるローマに負担する税の支払いをするように語られた。新約聖書を読む限り、献金は自由意志が尊重されている。心に定めた額である。私の見解であるが、自分で十分の一献金すると決めてする分には何も問題はない。問題は、十分の一の献金がしなければならないと規定されることである。そんなに大切なものであるなら、教会規則で「正会員は十分の一献金をもって、教会の維持に努めることとする」と書くべきである。ところが、このような規定を定めたら、献金が教会規則で強制されていると税務署からみなされるため、文字化を避けているのである。三千円から五千円程度を「正会員は教会の運営負担金として捧げる」と教会規則に書くぐらいでなら、許容範囲である。献金の額は自分で決める自由度が高くなければならない。一方、「負担金」(或いは会費)は、教会が額を定めてよいが、高額であってはならない。負担に耐えられない人が出てきたりする。公平感もなくなる。献金は神と自分との関係で判断して決めてよいが、「負担金」は教会が定めることができる。教会と自分(正会員或いは教会員)との関係である。献金は宗教的なものである。国家もこれに介入できない。負担金(会費)は、制度的なもので、教会規則に盛り込むことができる。そして、時代によって変わる。献金と負担金(会費)を明確化しないことが献金に駆り立てるからくりである。どちらにしても、負担感が多ければ多いほど、教会は教会のことを優先していることになる。教会は教会を支えている教会員を思いやるべきである。格差社会の中で生活に精一杯になった人も集える教会を目指すなら、負担を抑える方向に進むことが望まれる。
by maranatha
| 2021-03-19 21:13
| カルト化