2021年 06月 02日
コロナ禍の中で
日曜日の礼拝会に参加できない人は、礼拝に行けない、ではなく、礼拝会に行けない、と言い換えた方が良い。礼拝は信仰生活全体を表わす言葉である。なぜなら、キリストが、「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういうときが来ます。・・・真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:22~24)パウロは次のように礼拝について語っている。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)このように、礼拝は、場所ではなく、私たちの信仰生活そのものである。礼拝会に参加できない寂しさには、信仰者たちの交わりができないことが含まれている。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)を空間的な場所と取るのは間違いである。ソロモンは「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらなことです。」(列王記8:27)このように、宮も教会堂も、神をお入れすることはできない。空間ではなく、この場所というのは、関係論である。神を信じ、愛し合い、信頼し合い、助け合う関係の中に神はともにおられる。神は信じる者の心の中に住まわれるだけではなく、信仰によって心を通じ合わせる関係の中にともにいてくださる。だから、お互いが離れていても、祈り合う関係の中に神はいてくださる。教会堂に入って祈らなければ、神さまは聞いてくださらないような考えは間違いである。そのような間違いから解放されて、いつも神はともにいてくださる。祈る友と心を合わせて祈るときも神はともにいてくださる。教会は信仰共同体である。信仰をともにする群れである。群れは、空間的な場所に集まれなくても、通信手段を使って、関係を維持し、祈り合うことはできる。礼拝、交わり、祈り、集まらなければ、集まらなければ、と強迫観念に囚われないで、もう少し、自由に考え、行動した方が良い。
by maranatha
| 2021-06-02 22:52
| 教会