2024年 11月 10日
宗教指導者
いつの間にか、ブログの全期間合計訪問者が150万人を突破した。異端、カルト、カルト化した教会、間違ったムーブメントに警鐘を鳴らすために始めたブログだったが、意外と好評を得たのは動物が登場する記事だった。内容が厳しく感じるられる記事の中で、動物は人々に一息つく役割をはたしてくれたのかもしれない。今年はすっかり記事を書かないで過ごしてきた。親しい人たちからは再開を願うメールをいただいた。それに応えるために、この記事を書いているのではない。今日、私は久しぶりに、京都教会の朝の礼拝に出席した。テキストは、使徒の働き4章1節から12節だった。
私が注目したのは3節「彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。」これはユダヤの指導者たちがペテロとヨハネを捕らえたときのことである。イエスの時はどうだっただろうか。ユダヤの指導者たちは、最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で祈りするために行かれたイエスを、その園で捕らえた。ところが、夜明けを待たずに、「大祭司はイエスに、弟子たちのことを、また、教えのことについて尋問した。」(ヨハネ18:19)これは裁判をしてはならない時刻に、律法を権威のよりどころとしている指導者たちが、それを破っているところである。このような違法な裁判における判決は無効である。それだけではない。役人は証拠もなく平手でイエスを打っている。「彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくならないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。」(ヨハネ18:28)ユダヤ人は異邦人の家に入らなかったからである。私は、イエスを殺そうとして律法を破る指導者が、過越の食事を食べるため、また、身に汚れを受けないために律法を守る、この矛盾を指摘して起きたい。
私は、宗教団体の中で精神的虐待、性的被害、経済的搾取などにあった被害者を支援するために、指導者たちと話し合ったり、文書のやり取りをしてきた。その中で、本当に誠実に対応してくれる指導者はまれであった。大半は時間稼ぎをして代表者の任期をやり過ごし、後任に問題を残して去り、また、その後任が対応を伸ばして、被害者が精神疲労からあきらめるのを待っていることがしばしばであった。この不誠実さはどこから来るのだろうか。選挙で選ばれる彼らは、「敵」を作りたくない心理に支配される。問題をしっかり扱うのではなく、ことなかれで済ませたいと思っていることが多い。このように人の顔を見て過ごしている指導者たちが、被害者に対して真剣に向かい合うはずがないのである。政治は妥協の上に成り立っている。高潔で理想主義の政治家などいない。宗教の中にも政治がある。宗教の指導者たちは以前は理想を持っていたかもしれないが、指導者になるために、いつの間にか仲間を作り、妥協を繰り返しながら、賛同者を増やし、指導者へ上り詰める。そこには正義を体現する指導者ではなく、神ではなく人を見ながら妥協を繰り返す俗物がいるに過ぎない。いつの時代も、指導者は、ご都合主義の体現者である。私たちは、彼らがつく座で彼らを判断するのではなく、その指導者にふさわしい働きをするかに注目すべきである。
by maranatha
| 2024-11-10 17:21
| 宗教トラブル相談