告白」と聞いたら一般の人はどう連想するか?。恋愛の話かなと思うかもしれない。クリスチャンは神への「罪の告白」を思い浮かべる人が多いと思う。私がかつて所属していた教会での告白は全く違うものだった。『信仰という名の虐待』(パスカル・ズィヴィー、福沢満雄、志村真 いのちのことば社)には「告白」について次のように書かれている。
「その内容は、信者の人格を無視して、牧師と教会の意向に沿わない思考・感情・行動を全て告白しなければならないと要求し、個人のプライバシーを全て奪うものです。そうすることで、牧師あるいは教会に対して批判や疑問を感じることが『罪』であるかのように思うようになります。そして、心が解放されるよりも、自責の念に苦しみ、無意識のうちに牧師や教会の考えに自分を合わせなければならないと感じるようになります。さらに、牧師に自分の全てを告白しているので、牧師はそれを利用して、いろいろな場面で脅してきます。」
これを読んで、私は白い家フェローシップチャーチで牧師から虐待されていたんだと思った。なぜなら、この引用に私の経験が当てはまるからである。私やほかの人も書かれてある以上のひどい体験をした。牧師はカウンセリングと称して、信徒の過去の失敗や罪、心の中にあって今まで誰にも言わなかった感情や心の奥にある秘密、トラウマになるような出来事、ある人は親との葛藤、家族の深刻な問題、いじめ、コンプレックス、心の病、経済的な悩み、人間関係のトラブルなどあらゆることを聞き出した。私が脱会した白い家フェローシップチャーチはカウンセリングが告白の場所だった。信徒はカウンセリングと思っているのでいろいろなことを話した。私もそうだった。個人的に呼ばれて、プライベートなことをいろいろ聞かれたこともあった。
牧師は私が何か相談したとき、「牧師に話すことは神様に話すことです。」と言っていた。私はそれに対して疑問も持たず、感動さえしていた。「牧師に話すことは神様に話すことになる。主に話したことと同じ。」このことを今はおかしいと思うが、あの頃は本気で信じていた。牧師に対しても。自分に対しても腹立たしい。牧師は信徒のプライバシーを聞き出し、心の奥底までも告白させ、それを利用して、思考、感情、行動を操作した。しかも神の名を使ってそれをしていた。
そればかりではなく、牧師は「カウンセリング」で聞いた信徒のプライベートなことを他の信徒に話していた。しかも、それは今になって思うと、事実ではなく、事実をゆがめているか、あるいはうそが含まれる内容だったことが多い。私も数人の信徒について、あるいは白い家フェローシップチャーチに出入りしている共通の知人についての悪いうわさを牧師から聞かされたことがある。牧師が脱会した信徒の悪口を言っていることを知っている。
牧師にはカウンセリングで聞いたことに対して守秘義務が生じる。しかし、白い家フェローシップチャーチの牧師はそんなことを気にしていない。私は脱会以後、カウンセリングに対して抵抗感があった。牧師と話して、また秘密が守られないかも?と不安だった。それで、その教会の信徒に何度も「牧師は私の話をしていなかった」と聞いた。「いえ、何も聞いていないです。」私は何度も確認した。私は白い家フェローシップチャーチを脱会して疑り深くなっていた。
私のコメント
「カルト化した教会」の脱会者は疑い深い人が多い。それは、脱会した教会の牧師や信徒から傷つけられているからである。もう二度と騙されたくない、裏切られたくない、うそをつかれたくない、人間関係を壊されたくないという気持ちが働くからである。カルトは人間関係、友人関係、家族関係を壊す。その関係を壊さなければカルトの中に深く人を引き込めないからである。「カルト化」とはカルトに徐々に近づいている状態である。白い家フェローシップチャーチはカルト化している教会である。ここでの告白はカウンセリングと混同されている。そして、あってはならないことだが、牧師が告白の内容と守秘義務が伴うカウンセリングの内容を他者に漏らしている。内容を歪め、自分に反対する者には尾ひれをつけて攻撃材料にしている。名誉棄損も甚だしい。しかし、これまで裁判沙汰になっていないのは、自分のプライバシーを知られ、悪用されることを恐れるため、訴訟を避けていると思われる。